書話1(書についての雑感)


漢字字体、仮名字体の基準について

 字体とは文字の骨格のことで、それは文字を書く場合のよりどころとなります。例えば、「木」という漢字を書く場合は、第一画を横に書き、第二画を第一画に交差させて縦に書く、続いて第三画と第四画を第一画と第二画の交差したあたりからそれぞれ左右に斜め下に向かって払って書くというような決まりがあります。文字は共通の記号ですから、ある一定の決まりがなければ不都合です。
 ところで、この字体の基準については、絶対的に確固たる基準が存在しているかのように一般的には考えられているようですが、実のところそうではないのです。
 まず、漢字の字体については、昭和56年10月1日内閣告示により「常用漢字表」が定められていますが、これはあくまでも「明朝体活字のうちの一種を例に用いて示した」ものであって「漢字使用の目安」なのです。しかも「筆写の楷書における書き方の習慣を改めようとするものではない」とされているのです。
 にもかかわらず現実は、明朝体活字が絶対的なものであるかのごとく考えられており、特に教育現場においても誤解されていることが多く、例えば「木」の第二画をはねて書くと誤りであるなどと間違った指導が平気で行われています。「木」の第二画は、目安である「常用漢字表」でははねていませんが、過去の古典から見た「筆写の習慣」はむしろはねて書かれることが多いのです。内閣告示にあるとおり、「目安」よりも「筆写の習慣」が重んじられなければならず、「常用漢字表前書き」にも「個々の事情に応じて適切な考慮を加える」よう結んでいます。
 さらに、こと平仮名に至っては、明治33年の「小学校令施行規則」により一音一字に統一されたものの、現在でもその字体については、実は「目安」すら決まっていません。「き」や「さ」の最終画は前画に繋げて書くのか離して書くのかなど、教育現場でもかなり混乱が生じているようです。このために、極端な場合、子供の書いた字が活字のデザインようになっていないことをいけないこととして、誤った添削が多くなされてしまうようです。ここでもやはり重要なのは「筆写の習慣」となりましょう。実は多く目にする現在の平仮名活字のデザインは、過去の古典には一つも登場しないのです。多分この活字は、大量印刷の途中で活字が欠けるのを防ぐために工夫され、「筆写の習慣」からかけ離れてしまったのでしょう。この活字のデザインまでもが絶対的な手本として考えられている現実は非常に嘆かわしいことです。国語審議会が平仮名の字体の基準を未だに示せないでいるのも、どうもこの辺りに原因があるのではないかと思います。
 文字はあくまでも人間が書き文字として使用することが第一義です。活字がそれに合わせるべきで、人間が活字に合わせるべきではありません。
 人を指導する立場にいる者は特に気を付けたいものです。

男性の書、女性の書

 書にはその人の性格なり気性なりが必ず現れますが、当然に、男女の別による気性の違いも現れます。
 一般的に、男性の書は動きが大きく躍動的で、女性の書は繊細でまとまりが良いと言われています。実は、どちらもそれが良さでもあり欠点でもあるのです。男女の別からもたらされる美しさは、個々の程度の差はありましょうが、基本的には同格であります。男女の価値が結局は同じだからでしょう。
 ところが、小学校の習字の時間に、先生がこのことを良く理解していないばかりに、大抵女の子の字を誉めてしまうことがあります。女の子の書く文字は、細かな部分にまで気を配っていて、良くまとまることが多いからです。
 男の子は一生懸命になればなるほど、余計に心が活気付いてしまい、線の動きが大きくなって字形が乱れてしまいます。先生があまり誉めてくれないので、男の子はとうとう習字が嫌いになってしまいます。
 この先生ばかりでなく世間一般には、書はまとまりの良いものだけが評価される傾向がありますが、この例のように、この時良い評価を受けた文字の美しさとは、女性の気質からもたらされた美しさで、いわば美の一部にすぎません。男性と女性の価値が同等であるならば、男性の気質からもたらされる躍動美もそれと同等に美しいはずです。
 男性も鍛練の末に字形が整いだしたあかつきには、一点一画すべての用筆を強い覇気によって統一しているため、寸分の狂いもなく空間が緊張し、鋼の響きすら聞こえてきそうなほどにもなります。
 男性もただ暴力的に強いのが良いのではなく、自分より弱いものに対する優しい繊細な心があってこそ本当に強いのであり、また、女性もただなよなよとしているのが美しいのではなく、時には子をかばってどんな圧力にも例え自分の命が無くなっても屈しないといった強靭な心が根底にあって初めて優しくなれるのです。男性も女性も、より理想的な美を手に入れるためには、お互いに研鑚していかなければなりません。

よい書、美しい書とは

 「よい書とは一体どんな書であるのか」「美しい書とはどのような書を指すのか」といった問は、書を学ぶ者にとって一番身近な問題であると同時に、恐らく一番重要な問題ではないでしょうか。
 実際、私も折りある毎に、この問いかけに想いを巡らせております。このことは、少なくとも私にとっては、書を学ぶ上での本質的な問題ということになり、したがって、この問に対する明確な答えを自分自身の中に確立しないかぎり、書の発展・向上は望めないであろうと思っています。
 書について、よく「あの人はとても字がうまい」などと言います。一般的には「よい書」「わるい書」というよりも「うまい書」「へたな書」という言われ方が多く聞かれます。
 私は、一つの問題を解く場合、なかなか回答が得られないときは、すでに答えの解っているものに置き換えて考えることにしています。
 「書」を別のものに置き換えて考えるのです。これは、この世の中の総てのものの根元は、共通する一つの法理によって成り立っているからだろうと思うからでありますが、このような考え方は、なにも特別な考え方などではなく、通常、学問の基本になっているように思われます。例えば、物理学では、大宇宙の生成を解明するのに、極微の世界である原子の生成について研究がなされています。ニュートンは「りんご」の落ちるのを見て「りんごが地球に向かって落ちるのだから、たぶん月も地球に向かって落ちているに違いない。」として「万有引力の法則」を発見したのですが、これは結局、ニュートンが「月」と「りんご」を置き換えて考えたからに他なりません。
 私は、「よい書とはどんな書であるのか?」という問題を解りやすくするために、「書」を「人」に置き換えて考えてみました。「書は人なり」と言われるように、「よい書」であるための条件と「よい人」であるための条件とは、同根であると思うからです。
 ここで、「よい人」の条件を列挙してみましょう。
・稜々たる気骨を持っている人
・大言壮語などではなく、鍛錬の果てに根底からにじみ出るような気魂を有する人
・格調の高い自由精神を持っている人
・仕事に対する態度や生き方が厳正で集中徹底を好む人
・ただ気まぐれに弛んだ心で遊芸することを好まない人
・まるで子供のように天真爛漫な人
・人生の生き方が明快な人
・決して俗にならず、どのような境遇にあっても境涯が高尚な人
・偽善ではなく、心の奥底から不純を忌み嫌う人
・自分をいかなる理想像に向かって完成してゆくかという「士気」を強く備えている人
・単なる思いつきの冒険心だけではなく、緻密な計算や鍛錬のもとに開拓精神を併せ備えている人
・他人の痛みや人間の内面の矛盾を自己自身の問題として深く憂慮する切実さを持った人
 この辺りまで来ると、もうお解りになったかと思います。
 以上のような条件の中の「人」を「書」に戻してみると、「よい書とはどんな書であるのか?」の答えになるかと思います。
 蛇足ですが、それではもう一つ次の条件はどうでしょうか?
・地位や名誉を得るために立ち回りのうまい人
 これはいかにも「よい人」の条件には当てはまりそうにありません。結局「うまい」とか「へた」とかいった表現は、ある目的達成のための一つの方法が、妥当であるか否かといったことを主に表す言葉であるためで、書を学んで行く過程においては、「早く書を上達させたい」といった目的意識からこのような「うまい」「へた」という表現を用いようとすることは理解できますが、この「うまい書」をもって「よい書」の条件とすることは到底次元の違うことであり、適切な考え方ではないと思います。

芸術と技術

 世間一般には、芸術は技術であると言われることが多いようです。 実際、書道ばかりでなく、音楽・絵画・陶芸など、芸の道を極めようとする者は、日々時間を惜しんで何年も技術習得のために研鎖します。そして、展覧会や発表会などでは、その技術の高さ・正確さなどを審査で評価されます。
 それでは、本当に芸術は技術がすべてなのでしょうか。
 ところが、有名な芸術作品と言われるものを批評している雑誌などを見ると、その作品についての技術的な面の批評と併せて、作者の精神的な面の批評が多くなされていることがあります。
 これは何を意味しているのでしょうか。
 芸術とは、出来上がった作品を呼ぶ言葉であるので、いわば「結果」であると言えます。
 技術とは、作品を制作するために用いる方法を呼ぶ言葉であるので、いわば「過程」であると言えます。
 世間一般では、「過程」と「結果」が同列に議論されているため、正確な理解が妨げられているのでしょう。
 ところで、芸術は、技術と密接に関係してはいるものの、すべてではありません。
 例えば、家を作るときのことを考えてみましょう。
 家を作るときは、工法や材質などの技術的なことも重要ですが、キッチンをどのように使いたいか、子供部屋はどんな使い勝手にするかなど、そこに住む人の生活観や子供に対する教育観などが、設計に活かされることのほうが重要になってきます。
 書の場合も、字形の均整の取り方や作品の変化の付け方など運筆の技術も重要ではありますが、今現在の自分の持っている技術力を恥ずかしがらずに精一杯出そうとか、書き上がった作品を真正面から反省するとかいった、精神的な質の高さが重要になってきます。
 芸術を考える上で最も重要なこのことは、ある程度経験を積んで技術が上達してくると、つい忘れがちなことでもあるので、日々注意が必要です。

書を学ぶ順序について

 書に限らず何を勉強するにも、ある一定の順序にしたがったほうが効率良く学ぶことができます。
 書を学ぶ順序は、普通は「楷書」から始めるのが一般的で、その次に「行書」と「かな単体」に移り、最後に「草書」と「かな連綿」、そして「創作」を学びます。
当然に小・中・高校の教科書もこの順序で書かれ、また、各書道塾などでもこれに沿った指導が行われます。
 この方式は、文部省の指導要領にも明確に定められ、既に長い歴史がありますが、最近になって、このような体系的な学習法は書道をはじめ芸術全般にはあまり適さないのではないか、または、この体系付けには誤りがあるのではないかという意見が教育審議会などで出されています。実際、10年以上も書を学んでいる人の中にも、未だに楷書以外は習ったことがないというのは珍しいことではなく、手紙一つ満足に書けないと真剣に悩んだりしています。教育審議会での意見は、少しはこの辺りの事情も汲んでいるのでしょう。
 楷書の重要なポイントである点画の均整は、点画一つ一つがただ単に機械的に組み立てられて出来上がっているものではありません。実は筆者の心の動きにしたがってリズムによって構成されているのです。
 運筆のリズムは、行書・草書の順にいっそう顕在化しますが、楷書だけの練習ではなかなかこのリズムの存在に気が付きにくいものなのです。王羲之の蘭亭序(これは行書ですが)は非常に均整がとれていることで有名ですが、これは「草書の大家」すなわち「リズムの大家」であるがゆえに成し得た技といえましょう。
 以上お話しした理由から、書を学ぶにはまず、リズムを適度に習得でき、日頃から書きなれていて、メモを取るときなど実用的な「行書」から最初に勉強するほうが良いと思っています。また、現代文で使用する仮名は草書のさらに簡略した書体であることを考えると、「草書」の勉強も早い時期から重要になってきます。
 書体を楷書・行書などのように区別して体系化して整理することは、知識の習得(事柄の記憶)の面からは大切なことですが、これがそのまま技術の習得(運動の記憶)に有効であると考えることには注意が必要です。

線質と字形について

 書の面白さは、一画一画に現れる線質についてごうと音を立てて流れ落ちる滝のような厚みや勢いを感じたり、時に小川のせせらぎのようにさらさらとした繊細さを感じたり、またそれらの自由な変化の小気味良いリズムを楽しんだりするものです。
 これらのことから「書は用筆芸術である」といった理論(故田辺萬平東京学芸大学名誉教授)は経験的にも納得の行くものと思います。音楽は、演奏者が奏でる繊細な音や厚みのある音やリズムを楽しむので、言い換えれば、「書は目で見る音楽」といったところでしょうか。ところで音楽もただ良い音、繊細な音、厚みのある音だけではだめで、やは り美しいメロディーが欲しいところです。最近のポピュラーソングには、音だけはデジタル音源などを使って良い音にはなりましたが、ただドスンドスンとリズムばかりのものが多いと不満を感じているのも私だけではないと思います。
 メロディーは譜面にできることからも解かるとおり「形」として考えることができます。
 書も、音楽と同じように「線質」と「字形」に分けて整理したほうが技術を磨くうえで都合が良く、また書を芸術足らしめるためにはどちらが重要となるのかが問題にされてきました。
 以上のようなことは、昔から哲学の世界でも5本の指に入るほどの難問とさ れる「形相と質量はどちらが重要(実在〉か」というようなところで扱われ、 いまだに様々の激しい議論がなされていますが、ここではあまり難しく考えずにポイントだけを押さえておきたいと思います。
 まず話しを解かり易くするために、私たちが家を造るときのことを考えてみたいと思います。
 しっかりした住み良い家を建てるためには、住む人の生活習慣や行動パター ン、家族構成などを十分考慮した設計すなわち「形」が重要になりますが、その「形」をしっかりと実現させるためには、柱や壁、基礎に使うコンクリートなどの材料すなわち「質」を当然に吟味しなければなりません。いくら 良い設計であっても柱が腐っていたり、基礎のコンクリートがもろい物であったならば長く住み続けることはできません。反対に、いくら高価な建築材を使ったとしても、例えば住む人の家族構成をまったく無視した設計では到底安らぎを得ることはできません。
 書についてもやはり、「線質」と「字形」の双方が素晴らしいものでないとだめで、いかに活字のように寸分の狂いなく字形が整っていても、生命感のない線では美しさは半減してしまいます。逆に線質は大変動きを感じさせるものでも、字形が不安定では統一性が感じられず、ただうるさいだけの作品になってしまいます。
 現実には「線質」と「字形」の関係は密接に関係したいわゆる「相対的な独立」の関係にあって、例えば字形の狂いは線にリズムが不足していたため思ったところに起筆位置を定めることができなかったことが原因であったり、 反対に線質の生命感の無さは実は前の点画などとの位置関係のずれからもたらされたなどといったことが多く、実際の用筆の勉強にあたってはこの辺りに注意して手本を観察すると、いままで苦労していた筆使いでも案外簡単に理解することができます。

漢字仮名交じり文について

 通常私たちが手紙や報告書などに用いる現代文のことを「漢字仮名交じり文」などと言います。
 私たちはこの「漢字仮名交じり文」を当たり前のように日常使用しているので、 これを用いることについては特に何も気にしませんが、いざ書道界に目を向けると、少し変わった現象が見られます。
 日展に代表される各種書道展では、必ずと言っていいほど「漢字の部」「仮名の部」と言うふうに出品規定が別れていて、また、会派によっては平安仮名専門などというところもあったりして、実は「漢字仮名交じり文」の作品にお目に掛かることが少ないのです。
 この現象を反映しているかのように、世の中の書家と呼ばれる人たちは「漢字書家」「仮名書家」にはっきりと別れ、そればかりかお互いに他方は芸術でないなどと中傷しあったりするような茶番も珍しくありません。
 これらの現象は、様々の利害や立場があってのことでしょうから、これ以上はあまり詮索しないことにいたしますが、素直に書を学んでいこうとするならば、当然に日頃用いている文書が美しく書けるように勉強していくことが大切だと思い ます。
 平安仮名は平安時代の貴族たちの日常のものでしたし、優れた漢字の古典、例えば蘭亭序にしても王羲之が日常用いている文章を思い付くままにしたためた草稿なのです。
 「漢字仮名交じり文」が美しく書けるようになるためには、「漢字」と「仮名」が上手く調和するようにすることが大事ですが、以下にそのポイントを記しますので参考にしていただきたいと思います。
 まず、「漢字」と「仮名」とはその形状に若干の違いがあります。 「漢字」は「仮名」に比べ画数が多く、ほとんど直線で書かれるため、線質も勢いが付きやすく男性的です。
「仮名」は「漢字」に比べ画数が少なく、曲線を多く用いるため、線質は流麗になり易く女性的です。
 ですから、これらが交じった現代文を、その形状の違いがあるままにただ書いていったのでは、どうしても調和が取り難くくなってしまいす。従って、これらの形状の違いをできるだけ解消させるように、例えば「漢字」は画数が多ければ細めの線で、転折部はやさしく、直線と言えども肉厚に変化を付けて曲線味を出す。「仮名」は反対に太自の線で、転折部は厳しく、できるだけ直線的に勢いのある線質とするとよいでLょう。
 これらの技法の習得は、いろいろに試行錯誤を重ねる以外に方法はありませんが これらの技法のヒントが実は「草書」に見ることができます。「草書」は漢字の「楷書」をくずした書きぶりですが、それをもっと大きくくずせば「仮名」になってしまうからです。
 「草書」は「漢字」と「仮名」とを調和させるために必要な用筆の宝庫と言えます。

美しい字形について

 書は、線質と字形の両方が美しくなければなりません。過去の名品は、どれもこの条件を満たしています。
 今回は、このうちの「字形の美しさ」について考えてみたいと思います。
 まず、美しさとは一体何でしょうか。なぜ人は、あるものは美しく感じ、あるものには美しさを感じないといったことが起こるのでしょうか。そして、美しいものと美しくないものの境は、一体どのように定めたら良いのでしょうか。
 このことは、実は非常に難しい問題で学説もさまざまですが、ある一つの有名な説明として、次のような考え方があります。
 「美は、その対象となるものが理想の如くに実現する(自然の本性を発揮する)場合に感ぜられるものである」(西田幾太郎「善の研究」岩波文庫)。
 この説明では、例えば花が美しいのは、長い生物進化の結果備わったその花の持つ天賦が充分に発揮されたからである、というふうに説明されます。
 この考え方の源流はプラトンに見られますが、仏教の根本思想の「真即美」や中世哲学の「すべての実在は美である」などにも現れています。
 さて、文字は人間が作りだした言語・思想を記述する記号です。
 記号の理想は、人に認識しやすいということですから、まず均整で不明瞭な箇所のないことが求められます。これには、点画同士のバランスのみならず、線の太さとの関係や文字同士の配置、線同士の交差なども重要な要素になります。
 次に、記号を認識するためには、記号ごとに特徴がなければなりません。そこで、それぞれの文字は画数や点画の配置が差別化され、したがって、画数の多い字もあれば少ない字もあり、また横画や縦画ばかり多い字もあります。これらを理想的に書き表すには、その文字の特徴に沿った表現が必要になります。縦長・横長の変化はこれに基づいています。
 最後の記号の特徴として、記号には人に訴える力を備えていることも重要なポイントです。人にインパクトを与える表現方法としては立体的な表現が有効で、このため、立体地図の技法に見られるような、線に細太の変化をつけたり文字の下部を小さ目にしたりするのです。
 このようにして表現された文字は、おのずと美しい字形になります。
 過去の名品と呼ばれるものは、皆このような「理想の実現」が認められます。

美しい字形について(その2)

 美しい文字の形とは、一体どのようなことをポイントに成り立っているのでしょうか。また、何か法則のようなものがあるとすれば、どのようなことに注意して勉強すればよいのでしょうか。
 美しい形に対する感覚は、多少国や環境の違いはありますが、ほぼ私達人間に共通して備わっているものであるとされています。 たとえば、法隆寺の回廊の柱は単なる円柱ではなく、中央部分が少し膨らんだ形をしています。これはエンタシスと呼ばれる建築様式で、ギリシヤの神殿の柱にも見られるものです。柱の中程が少し膨らんでいることで、それに支えられている屋根やその装飾に重量感を覚えます。
 さて、美しい字形となるポイントをいくつか示します。 まず、均整しているということが重要なポイントになります。 これは単に各点画同士の均等ということのみならず、左右対称(シンメトリ) という要素も含まれ、それには形の対称や重量感の対称といったことも重要になります。
 また、もっと広い意味では、右上がりに対する右下がりといったことや、作品全体としての均整、例えば不均衡と不均衡が対称的である場合は、逆に均整を感じてしまうといったことも含まれます。
 次は、アクセント(集中とかコンセントレーションとも言われます)です。 これは、文字中の点画のうちどれか1つだけ長くしたり、太くしたりしてアクセントをつけます。また、作品全体としてもある部分を太めの線で表現したり、大きめの字粒で表現したりします。
 それから、文字の下部を小さめにしたり、作品全体について下部を軽めにしたりして、若干の不安定さを出すことも、私達人間の美意識を適度に刺激するよ うです。
 その他には、文字の特徴に沿った表現、例えば、縦長になりやすい文字はそのまま縦長にすることや、文字を書く状況に沿った表現、例えば、用紙に入りきらない場合は扁平に、隣の文字が大きく張り出している場合は、それを避けるように表現したりします。
 現実には、これらはいずれも複合的に作用し合っていて、結局、この形が一番美しいのだという短絡的な決まりはないと言えましょう。 あくまでも、美しい形とは相対的なのです。
 これらを厳密に分析することはできませんが、過去の優れた古典などを臨書することで、経験的に会得することができます。
 古人はこのようなことを「形が見えてくる」などと言っています。

美しい線質について

 今回は、美しい書の線とはどのようなものであるかについてお話ししてみたいと思います。
 書の美は、字形からばかりでなく線の質からも感じられます。 例えば、平安古筆は非常に繊細で、流麗な感じを受けますが、これは連綿(線を切らずに複数の文字をつなげて書く)による形状の持つ印象からもたらされるだけのものではなく、細く勢いのある線の質によってももたらされているのです。
 水墨画では、例えば、木の枝を描く場合は骨力のある線を、滝のように水の流れを表現する場合は掠れの多い線を、人物などの輪郭を描く場合には微妙な抑揚によって線に太さの変化を持たせ対象が立体的に見えるような線を描きます どんなに小鳥の形はよく描けても、線が澱んでいたならば、ふっくらとした羽毛の感じや骨力があってしっかりと枝につかまっている足の感じなどは表現できません。
 これらの線は、筆の機能に従って運筆しないと上手く表現できません。懸腕直筆によって、毛筆の弾力を活かして勢いよく運筆する必要があります。
 書の線についても、このことはそっくり当てはまります。 高村光太郎は、筆の機能が活かされていない書の線のことを「死んだミミズのようだ」と言っています。
 直筆とは、線の中心を穂先が通ることが原則です。ただし、起筆の部分では、 落筆したときの穂先の方向と送筆の方向が違う場合は、当然に、一瞬この原則は崩れます。このことは線の転折部でも同じですが、これは仕方のないことで許容の範囲内です。
 毛筆の弾力を活かすとは、送筆の初期段階で筆圧を加え、毛筆の僅かな弾力を利用して送筆を直筆とすることです。水墨画で笹の葉を描く要領に似ています。
 なお、直筆は線の中心を穂先が通ることから「蔵峰」とも呼ばれ、これに対し直筆でないものは線の中心に穂先が通らず、一方に穂先が偏っていることから「偏峰」と呼ばれます。
 結局、美しい書の線とは生き生きとしていることが必要になります。

空書とリズム

 今まで、生き生きとした線の重要性について何度かお話ししてきましたが、実際どのようにすれば生き生きとした線が書けるのか、ここでひとつのコツをお示ししたいと思います。
 生き生きとした線を書くためにはリズムよく運筆することが必要ですが、書かれた手本や印刷された過去の名品を見ただけでは、その筆者がそれを書いた時にどのような調子やリズムで書いたのかまではなかなか分かり難いものです。
 そこで、その作品の運筆の調子まで追体験する一つの方法として、「空書」という方法が行われます。
「空書」とは、実際に筆や紙を使わず、自分の腕を筆に見立てて、手本や名品を見ながら(またはイメージしながら)空中で同じように腕を運んでみることです。
 この「空書」は、過去の書論の中でもその重要性が説かれており、書の愛好家で知られる良寛も、近所の子供たちから凧への揮毫をたのまれたとき、大空に向かつて「天上大風」と大きく空書してから筆を執ったという逸話があるほどです。
 書かれた線の微妙な細太の変化や掠れ具合などを基に、筆圧の加減や運筆の勢いなどを「空書」によって、空中に再現するのです。
 実際に作品を揮毫きする時はいきなり筆を持って揮毫するより、「空書」を3~4回繰り返して揮毫したほうが、無理なくリズムが体に馴染んで、自然なリズムで運筆できるようになります。
 筆穂の面を返す動作も手の甲と平で表現します。時には「サッ、サッ」などと声を出しながら運筆してみるのも、よりリズムを習得しやすくします。
「空書」の良いところは、形が目に見えないので、字形を気にせず運筆のリズムや抑揚の調子を習得できるところにあります。普段から書を目の前にしたときは、この「空書」をする癖をつけるとよいでしょう。人前で手を大きく空中に掲げることが恥ずかしいときは、心の中でだけでも行ってみて下さい。
 数段に線の勢いや力強さが増すことでしょう。