鍛錬のすすめ


この「鍛錬のすすめ」は、平成27年10月25日に行われた書道一元會の書論研究会での私の講義録を掲載したものです。

第91回 書道一元會研究会(書論)

日時:平成27年10月25日(日)13時20分~16時40分

場所:北区北とぴあ第2研修室

講師:書道一元會顧問 近藤祐康先生「楊守敬と巌谷一六の筆談から 中鋒論の本質を探る」

   書道一元會同人 日沼古菴「鍛錬のすすめ」

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鍛錬のすすめ

只今ご紹介いただきました日沼古菴と申します。
本日は、お忙しい中、私の講義にご参加いただきまして誠にありがとうございます。
昨年、企画部長の酒巻先生とのお約束で、講師の引受先で困るようなことがあれば、いつでも声を掛けてくださいと、半ば社交辞令でご挨拶したのがきっかけなのですが、こんなに早く順番が回ってくるとは思いませんでした。
正直を申上げまして私、書論について専門的に勉強したわけではありませんで、田邉先生の論書ヨウ語や書譜、随筆などを読む程度でございまして、ましてや書論の講義などは一度も経験がないどころか、漢文すら満足に読めないと言っても過言ではございません。
ただ、一口に書論と言いましても、例えば、古書論や書論史の専門的な研究もあれば、単なる書話や書談義のようなものもあるようで、いたって範囲が広いと思っておりまして、そう考えますと、こんな私でも書論との関わりが全くないわけではありませんで、私の師匠であった山口古堂先生から、要所要所でご指導をいただいておりました。
山口先生は、私に対しては、書論だけを取り立てて講義いただくということはあまりしませんでした。この理由について、あるとき山口先生にお伺いする機会がありまして、指導いただいたのですが、技術が身についていないうちに、難しい書論を聞かされても真に身につくものではないからというようなことをおっしゃっておりました。また、技術が身についていないうちから、理論ばかり知識を増やして、あまりに耳年増になると、私の性格から、却って、自分の怠け癖のある怠惰な書生活を肯定する言い訳に使ってしまうからともおっしゃっていたことを覚えております。これについては、具体的なことで申しますと、田邉先生が昭和46年に出版された著書であります「書の基本」に「書の学習は一にも二にも用筆である」ということが書かれておりまして、その根拠として、万葉仮名の成り立ちや中国の書体の変遷が用筆的要求から導かれたものであることが説かれております。用筆の結果が字形となって表れるのですから、字形が先に頭にあって運筆すると筆が伸びないし、ゆっくり字形を作るだけのことを身に着けても、リズムをもって書くと字形が崩れてしまう。だから用筆が重要なのだというこの田邊先生の主張は、私たち書道一元会に籍を置く者にとっては、至極あたりまえのことでありますが、造形主義一辺倒の現在の書道界にも一石を投じる画期的な理論なのであります。この理論のお陰で私たちは、人の心を動かす書作を目指して、なぜこのような書作となったかを用筆面から研究し、より高みに向かって研鑽していけるのですが、実は一つ注意しなければならない点がありまして、それは「田邊先生は字形は二の次と言っている」と早合点してしまって、極端ですが「字形はどうでもいいんだ」などと、字形の乱れに無頓着になってしまうことなのです。今日の資料の①に掲げましたのは、田邉先生の昭和二十三年の作品で蘭亭の臨書です。田邉先生が40代前半くらいでしょうか。皆さんはこの田邉先生の臨書をご覧になってどう思われますでしょうか。線の一本一本、行間・余白全てが緊張した、なんと美しい結體ではありませんか。私は今まで、ここまで美しい蘭亭の臨書を見たことがありません。しかも、単なる臨書にとどまらず、すでにご自分の書き文字とされていらっしゃるように見えるのは私だけでしょうか。これを見ただけでも、田邉先生は、一寸たりとも結體・字形を疎かにしていないことが分かります。超人的な用筆の鍛錬の結果、このような素晴らしい結體・字形をご自分の文字として創作し得たと言えると思います。この重要な点を棚上げしてしまって、日々怠惰な自分を肯定する理由として、少しばかり字形が整わなくとも「田邉先生は字形は二の次といったからいいんだ」などという歪曲して解釈することだけは絶対にしてはならいと教えられてまいりました。
人間はどうしても弱いところがございまして、本当は自分自身に責任・悪いところがあって、それは自分でもよくわかっているのですが、そういった状況が長年続くと、その自責の念に堪えられなくなるようでございまして、そうすると段々といつしか、自分を肯定して考えるようになりがちなんですね。「鍛錬」が足りないと、「自責の念」にさいなまれるようになるのですが、それが長く続くと、それにとうとう耐えられなくなって、鍛錬のない怠けた自分を肯定しようとしてしまうようです。怠けた自分を肯定するのですから、さらに鍛錬を怠るようになってしまう。こういったスパイラルに一旦陥ってしまうと、なかなか抜けだすのは難しそうです。
私の師匠の山口古堂先生は、自分に都合よくものごとを考えがちである私の性格をよくご存じだったこともあり、この辺りをご心配されてご指導くださいました。こういったことは、実は恐ろしいことに、書の経歴を積んで、書家としての地位が高まるほど強くなるのだということもおっしゃっておりました。若いころから早くして公募展で何度か賞を獲得して審査員となり、先生先生とみんなから呼ばれるようになったころからが実は一番あぶないのだというのです。
若いころは、賞に入りたい一心で鍛錬もしたので、少し器用な人であれば、ある程度は苦労なく直ぐに作品がかけてしまう。そうなると段々と若いころのように鍛錬を行わなくなってしまう。そうこうしているうちに作品のレベルは徐々に落ち始めるのですが、一旦、同人・審査員という地位についてしまっているので、それを認めたくないと。ついにはスパイラルの餌食になって、書も人格も共に墜落してしまうんだそうです。なんと恐ろしいことでしょう。実は、このことについては、山口先生はいつも繰り返し私にご指導いただいたんですけど、よっぽど日沼はそうなるんではないかと心配していたんですね。お陰である程度は性根に染みついているのですが、遺言だと思って引き続き気を付けていきたいと思っております。
結局のところ、この「一にも二にも用筆である」という田邉先生のご主張は、裏を返せば、「用筆の結果が字形なのですから、その結體・字形が乱れているということは、用筆そのものが乱れていて不完全なのである。だから一にも二にも用筆なのである。」という意味にすなおに捉えなければならないと思っておりまして、鍛錬の足りない自分・怠けている自分を真正面から認めなければいけないと考えるようにしております。
今日のお題目の「鍛錬のすすめ」は、古書論の解義のような大それたものではなく、いまお話いたしました「鍛錬」に纏わる話題を中心に、拙いながら私が日頃書を勉強する中で、時に私なりに疑問が生じた際に、よりどころとした古書論や書話などの関連する箇所に対する私なりの解釈や感じたことなどを、書話としていくつかご紹介させていただくことで、何かしら皆様のこれからの研究のご参考とするところが少しでもあれば幸いでございます。
えー、如何せん人前での話すことに全く不慣れでございますため、アンチョコを見ながらのお聞き苦しい講義となりますが、どうかお許しいただきまして、お付き合いくださいますようお願いいたします。

では、最初の話題に入りたいと思います。
書の上達は、結局のところ、書きまくるしかないとは思うのですが、ただ闇雲に書きまくっても、人生、限られた時間しかありませんので、できるだけ先人の知恵をお借りしながら、少しでも有効な用筆でもって書きまくることが必要となろうかと思います。
自己紹介も兼ねまして、それでは少し私自身のことをお話してみたいと思いますが、先ほど来、山口古堂先生と申しておりますが、私の高校の恩師でございまして、墨田区本所にあります本所高校なのですが、実は猪野理事長、副理事長の森高雲先生をはじめ、本所高校の卒業生が一元会には、結構在籍してらっしゃるんですね。皆、山口先生のご指導により、書の魅力に引き込まれた先輩方で、私は山口先生がご退官の2・3年前の卒業ですので、中でも末っ子ということになりましょうか。
高校時代、最初は授業にもあまり興味がありませんでしたが、実は書道自体は、私は幼稚園のころから小学校くらいまで近所で習っていたこともあり、嫌いではなかったんですが、小学校・中学校の書写の時間の、息を殺して、ただ積み木をそっと積み上げるようなようなやり方には、我慢できないものを感じておりました。高校へ進学して山口先生の授業は、まず筆は全部降ろすこと、筆のいろんな面を使って、まるで床運動やフィギアスケートでもみているようなリズムをもって書くこと、そして「字形はあまり気にしない」という授業を受けて、私の中での書道のイメージが一変いたしまして、衝撃を受けたのを覚えております。その衝撃は相当なものでございまして、15・6歳まで、常識として教わっていたことが、実は、もしかすると本当のことではなかったのではないか、ということに気づかされまして、それはそれは、日沼少年が今までに味わったことのない感覚でありました。世の中は、もしかすると、そういったことばかりなのではないかと。わくわくしたことを覚えております。
このようにして、まんまと山口先生の虜になったわけでありますが、そんな山口先生は、休み時間などでお話をすると、「はやく退職したい」なんてことを平気でいっておられるんですね。これまた当時の日沼少年の常識では、「退職すると急にボケた」などというようなことを回りできいておりましたので、こんな人が世の中にいるんだと驚いたものです。書に対してもっと時間が欲しいという意味でありまして、退職したらいよいよ書に打ち込める、書三昧の生活を送りたい、というお気持ちだったようで、非常に輝いて見えたことを覚えております。その時私は、こんなふうに一生打ち込めるものを持てるということはなんて素晴らしいことなんだろうと感じたことを覚えております。
こんなことで、書の道に入り込んだのですが、本格的に書を好きになったといいますか、書を続けていこうと考えるようになったのは、高校を卒業してからなのですが、たまに月に1・2回ですが、まだ山口先生はご退職前でございましたので、母校の本所高校にお邪魔しておりました。まあ、習うというよりは、遊びに行って書のお話をお伺いするというようなものでしたが、書道教室の隣の準備室に伺いますと、大抵、先生は、ご自分で臨書されたものを私に見せていただきました。当時はよく楽毅論の臨書をされていらしたようで、机の上に書いたものが束になってつまれておりまして、「ほら、出来栄えはどうだ?」という具合に見せられるのですが、罫線が朱墨で引かれているところに、たぶん、原寸大くらいにビッシリと臨書されていらっしゃました。机の上の様子から、毎日欠かさずされていたようで、言葉ではおっしゃいませんでしたが、このくらいは毎日づづけなければダメなんだということを身をもって私に示していただいたのだと思いました。また、一つ面白いことを覚えておりまして、それは、学校の先生が通常もっているいわゆる閻魔帳、生徒一人一人の提出物や成績の記録をしたノートのことなのですが、生徒の名前をノートの最初に山口先生が書いているんですけれども、よく見ると、筆跡というか書きぶりがみな一人ひとり違うんですね。これは、山口先生がおっしゃるには、生徒が自分で書いた名前を先生が臨書したんだというのです。生徒の文字を臨書していたんですね。こうすることで、生徒の性格というか、どんなリズムをもって生活をしているかまでもわかるような気がするからというのです。生徒一人一人のことをより身近に思えるからでしょうか。山口先生は、昭和女子大と青学の講師もなさっておりまて、そちらの閻魔帳もお見せいただいたことがございますが、同じように学生達の文字を臨書されていらっしゃいました。時には、自分には持っていないような調子であったり、その中に新たな発見があって、その運筆を探りたいと何度も臨書することもあるともおっしゃっておりました。このことは、私の臨書に対する考えを再考するきっかけとなりました。それまでは、臨書といえば蘭亭や争坐位などのいわゆる古典を学ぶことだけであると、固定した考え方に囚われていたのですが、自分の欲しいと思う用筆・筆の動きを自分自身のものとして捉えるために行うという意味においては、どんなものでも臨書の対象になるのだというふうに考えるようになりまして、要は、構えずに気楽に考えられるようになったといいますか、もっと自由に自然に考えられるようになりました。
資料②にお示ししましたのは、昭和30年に田辺先生が自由書院新社という出版社から「新書道」という高校の教科書をお書きになっておられまして、その教科書の教師用に作られた指導書に中に書かれている文章で「古法帖と臨書」の部分でございます。読んでみますと「臨書の目的は、自己の作風を建立するにある。従って、ただ数多く法帖を臨書するのみでは、本当に自己のものとすることはできない。本書は下巻においては、臨書研究の第一段階として、楷書は貫名菘翁の「中庸首章」を全巻掲載しておいた。行書は同じく菘翁の五柳先生伝を同様の仕組で掲げた。また細楷は楊大瓢の「千字文」を十分にとり、かなは伝行成筆「関戸家本古今和歌集」から相当数量を拾っておいた。すなわち漢字の臨書研究はは、まず菘翁から入門させようと言う趣旨である。それは、いかに漢魏、六朝の古名筆が立派であっても、漫欠落剥した碑の拓本であったり、復刻に復刻を重ねた集帖であったりしては、高等学校生徒に理解されにくいし、指導者としても、そういう拓本や集帖から基本的な用筆法を探り出すことは、困難であると思われるからである。確かなことをいえば、教師が学び取った経験のない古法帖を生徒に指導することは不可能に近い。古法帖というものは、その一つ二つを征服するだけでも容易なことではない。それを二十も三十も臨書させてみたところで、観賞教育以外に役立つものではあるまい。菘翁あたりの書は真蹟そのままの転写で、平安朝の古筆と同様塁線として十分味わい得られるものであり、また教師も研究し易いものである。さらにその書風は、あまり偏向のない穏健なものである。なお細楷の古名蹟臨書教材として掲げた楊大瓢の「千字文」は、その筆意が何処となく王羲之一派に通じ、将来王派の名蹟を研究する基本ともなるので、一般の教科書には登場しなかったものではあるが、敢てこれを取り上げることにした。大字では菘翁を習い、細字では楊大瓢を習って、それがいつしか結びつき、関戸古今のかなとも融合し、さらにそれが生徒各自の持味によっていろどられ、個性によって進展発育して行ったならば、そこに様々な書風が生まれるであろうと想像し、編者としてまことに楽しい教育的情熱がわき起こるのである。」と書いてあります。普通、教科書の臨書の講義では、きまって中国の晋、漢、唐代などの法帖となるのですが、菘翁は江戸、楊大瓢は明の時代の書家ですので、講師の置かれた状況やレベル感に配慮して、型にはまらない、田辺先生らしい的確な選択をされています。
資料③には、『書の基本』の中の童書の解説で、最後のほうに「私はこの字を手本にして何枚も臨書してみました。が、どうしてもできませんでした。なぜこの幼児にこんな巧妙なことができるのか。私は深い物思いに沈むのみです。」あります。4歳児の字を臨書されているんですね。
ここにご紹介いたしましたとおり、自己を建立するためといいますか、一つのの臨書の心構えについて、思うところをお話しさせていただきました。
話を元にもどしますが、私もよく臨書したものをわざと束にして置いておきます。毎日少しづつでもそれが溜まっていくのを見ると、よくこんなに地道に続けているなと、達成感を感じて自己満足なんですけれども、ふと、本所高校の準備室に山と積まれた山口先生の楽毅論の臨書の束のことを思い出しております。

次の話題でございます。
「無心」について少しお話させていただきます。「無心」という言葉は古今東西といいますか古くから言い尽くされた言葉でありますが、仏教や一部専門的な学問上の難しい概念を除きますと、俗に言われるところの「無心」というものは、感覚的には、様々の芸術やスポーツ、仕事に限らず、何か物事をうまく成し遂げようという時には、もっとも重要な心の在り方であると言われているようであります。
例えば、大相撲で横綱を投げ飛ばした力士にインタビューする場面をよくテレビで見ますが、アナウンサーが「あの時どのようなことを考えていたのですか」と質問すると、決まって「もう無我夢中で何も考えていませんでした」といった答えになります。
この時力士は、「あと1勝すれば優勝だ」とか「相手は負け知らずだから大丈夫か」などの気負った思いや、「相手が右から来たら上回しを取ってやろう」とかいったような技術的な考えは、多分この一瞬に限っては、頭の中には全くなかったんだろうと思われます。
この「無心」について、田辺先生の書譜の中に少し触れているところがございまして、ご紹介いたしますと、資料④にお示しした「情働けば言に形(あら)はれ、風騒の意に取会し、陽に舒(の)び陰に慘(いた)む。天地の心に本づくを知らんや。」の解説の部分、読んでみますと「情が内に動いてそれが言語に現れ、詩といふ藝術になるのであり、その情は、自然そのものの心が動くのであって、陽気に会って舒び、陰気に会って慘(いた)むのが当然である。決して人間の意思によって情が動くのではない。
 さういふ実情を知らないものだから、羲之の書にいろいろの変化のあるのを見て、その各の形式を固定的に捉えてしまふ。内部から動いた変化を外部から型として観るのだから、実態を捉えることはできないのである。その表現活動の原初を辿ってゆけば、それは無心の境地であり、無意識無自覚の純粋経験の動きであり、知情意の渾然たる姿であり、したがってそれは自然の心そのまゝである。既にそれは小我であはなくて大我である。大我の発動としての変化相を捉えて、それを固定した型だと思ふのは大いなる謬である。なんで一定した型などいふものがあやうか。」とありますが、ここに「無意識無自覚の純粋経験の動き」とあります。この「純粋経験」という概念は、哲学用語のひとつで、日本では西田幾多郎によって主張されたいわれております。考えや思いを巡らせること、また、反省などといった意識が存在する以前の直接的な経験のことを純粋経験といいまして、西田幾多郎は自らの禅の体験に基づいて、著書「善の研究」で純粋経験を主張しました。「善の研究」は当初は「純粋経験と実在」という題名で構想されていたのですが、出版社の弘道館が反対したためにこの題となったといわれております。
実は私は、この西田幾多郎の「善の研究」を20代のころ初めて読んだのですが、その時大変衝撃を受けまして、真実とは何か、美とは何か、どうすれば真実に至ることができるのか、どうすれば美を創造することができるのか、について、自分なりにすっと理解できたといいますか、腑に落ちた気になりまして、もしかすると、こんな自分にも真実・美に手が届くのではないかと、以来、西田先生の大ファンとなりました。
西田先生の説かれるところを簡単にお話しいたしますと、あくまでも私なりの解釈も付け加えてのことなのですが、人間に知覚されるさまざまの事象について、まずその事象そのものを人が知覚した瞬間には、いまだ無意識無自覚の心の在り方がありまして、これを「純粋経験」と西田先生は定義付けいたしました。この「純粋経験」すなわち「無意識無自覚の心の在り方」こそが「真実」であり「善」であり「美」であるという、いわゆる「真・善・美」の考え方なのですが、そのような無意識無自覚の「真」の心の在り方に至ることが「善」であり、そのような在り方の心をもって創作されたものには、自ずから「美」が具現されるというふうに私は解釈しているのであります。
人間の心の在り方は、まず事実について知覚や感覚が起こった時点ではまだ主観・客観にすら分化することのない生のままの純粋な経験があって、その次に、生のままに経験されたものの条件が過去の記憶などによって関係付けられて、判断され認識されるというのです。そして人間の様々な思いや意志、主観や客観といった意識の分化もこれによって惹起されるものとされています。先ほどの田辺先生の「陽気に会って舒び、陰気に会って慘(いた)むのが当然である。決して人間の意思によって情が動くのではない。」という部分は、まさにこの純粋経験から、主観・客観に分化していく人間の精神のありようを表現したものと思われます。
まず初めに「無意識無自覚の心」があって、その後に、主観と客観の意識が分化して、判断や認識となる。この人間の心の在り方を簡単に図示しますと、資料⑤の1行目のようになります。
《 作品・対象 → 純粋経験(主客未分化) → 判断・認識(主客へ分化) 》
こういった整然とした心の在り方の分析を西田先生は、善の研究の中で行ったのでした。
さて、これを書について当てはめた場合はどうなるでしょうか。例えば田辺先生の作品があって、これに対峙したとします。当然に対峙した瞬間に、言葉では言い表せない素晴らしい感動を得るのですが、そのうち、その美しさはどこから来るのか、この柔らかな線からなのか、それとも全くいやみの微塵もない布置の変化からなのか、また、そうしている間に、題材の意味するところや、なぜこの題材を選ばれたのか、などなどいろいろな触手が頭の中を渦巻き、初めの感動の長さと相まって、遂にはとうとう打ちのめされてしまいます。
田辺先生はなぜこのような人のこころを震撼させる美しさを作り上げることができたのでしょうか。
私は、表現を行って対象物を創作するという立場から、先ほどの図を資料⑤の2行目のように反対にして考えてみたのですが、
《 思い・意志(主客が分化) → 純粋表現(主客統一)→ 作品・対象(美) 》
のようになるかと思います。
ここにあります「純粋表現」というのは、いままで誰も使ったことがないのですが、先ほどの西田先生の「純粋経験」の反対の概念であります。主客を統一し得たときになされた表現という意味であります。西田先生は、あくまで「認識」のお立場から論じましたが、その反対に、私たちがさまざまの対象物を創作する「表現」の立場からも、無意識無自覚の心の在り方の方程式が当てはまるのではないかと考えたからでございます。
田辺先生の作品が美しいのは、主客を統一した「真」であり「善」である無意識無自覚の心の在り方をもって作品をお書きになったからでありまして、しかも、もともと先生の持っておられる様々の思いや知識・意思が私たちの想像を遥かに超える大きさのために、それらを統一するための力の大きさたるや、並大抵のものではないはずでございます。このため、表現された作品の美の大きさも人々を震撼させるほどのものになったのではないかと思うのであります。
いままで述べました一連の図式が、「無」の本質ではないかと思うのでありますが、では、どのようにして、この主客を合一させ、無意識無自覚の心に至ることができるのかについて、お話しさせていただきます。
皆さんもよくご存じの資料⑥「魚を得て筌(せん)を忘れる」という句があります。
「漁師が魚を捕った後、その魚を捕るために使った罠を持ち帰ることを忘れてしまった。」ということなのですが、それが転じて「良い書作品を創るためには高度な技術が必要なのですが、一旦その技術を身に付けてしまうと、その技術について意識しなくなる。」また「技術を意識しているようでは、その技術は本当は身に付いていない。」という意味に使われるようでございまして、資料⑦の田邉先生の著書「書の基本」の中の用筆法について「注意事項十條」というのがありまして、その第十条に「すべての用筆法は習得した時をもって不用となる。いつまでも覚えていると、そのために不自由になる。」とあります。まさにこの「得魚忘筌」と訴える方向は同じと思われます。
ですが、ここで私はハタと困ってしまいます。それは、「では、どうすれば習得した用筆法を忘れることができるのでしょうか」ということです。
また、同じく田辺先生の「書について」の中の「書作と心」の一節にも、資料⑧ですが「競書とか展覧会出品といふと、一種の競演だから他人とのせりあひになる。相撲や将棋のやうなはっきりした相手はないまでも、假想の相手をもって創作する。どの審査員が何點くれるだらうか、特選になるだろうか、この作品を他人はどう評価するだろうか、自分の拙さを隠しおほせるだらうか、この所を巧いと思ってくれるだらうか、といろいろ苦慮する。それは書作には絶對不要の邪念だとは知りつつ、それを拂拭できず、最も大事な感興を失っても、なほ假想の相手にかかずらって、あの手この手を考える。・・(中略)・・書作では、邪念の一掃ができるやうになれば五點の實力が十點に光る。邪念に妨害されれば十點の實力も五點に下がってしまふ。絶對に他を相手としてはいけない。筆を執る時には先づ心の中から他人を閉め出し、書そのものになり切って、運筆の感興に陶醉するようにならなければならぬ。書は技術以上に心術において悟入するところがなければならぬ。心の操縦をあやまると、一切の技術が無駄になる。」とあります。
田辺先生の説かれるところは、ごもっともでありまして、その通りなのでありますが、先ほど来申し上げました「無意識無自覚の心」もそうなのですが、本当にでは、どうすれば、邪念や様々の考えを頭の中から消し去ることができるのでしょうか。
先ほどの「得魚忘筌」にこのヒントが書かれているのであります。
この「得魚忘筌」は、漁師の一般的にありがちな行動を使っているのですが、一般的というのが実はミソでして、大抵、大方の人は、欲しいものを手に入れてしまうと、そのために利用したものを忘れてしまうというのですから、何かについて忘れてしまいたければ「手に入れてしまえばよい」ということになります。
どうも揚げ足取りのようで無責任のような言い方ではありますが、決してそうではなくて、実のところ、一刻も早く邪念のない心を手に入れるためには「技術の習得・鍛錬しかない」といいますか、「鍛錬」さえすれば、無意識無自覚の主客合一の心、邪念のない心を手に入れることができるのであります。
一つの簡単な例でお話しいたしますと、人間がまず何かを身に付けるには、最初は頭でいろいろ考えながら行います。
例えば、掴まり立ちし始めた幼児が歩き始めることを考えてみましょう。最初は一歩一歩バランスを確認しながらよちよち歩き出します。そして時に転んだり、柱に頭をぶつけたりしながら、「歩く」感覚を着実に覚えていきます。そのうちこの幼児の注意は「歩く」ことから段々遠ざかり、お母さんと歌いながら散歩をしたり、チョウチョを追いかけたり、お友達とかけっこをしたりできるようになります。
結局、この子は、「歩くことに関しては無心になった」ということができます。
ここで一つ重要なポイントは、「この幼児は、自分から意識的に無心になろうとしたのではない」ということです。繰り返しの技術の習得が「無心」を生んだんですね。
先ほどの「得魚忘筌」が示すように、繰り返しの鍛錬によって技術を習得してしまえば、そのために利用した用筆法や知識、また邪念のような気負った心は、忘れてしまうのが一般的なのです。
何か念仏でも唱えれば無心になれるといったようなことは全く論拠がないのでありまして、「無心」になりたければ、繰り返し技術の鍛練をすればよいのであって、これ以外には方法はないと考えております。
ふと邪念が脳裏をよぎるということは「鍛錬」が足りない証拠ということであると考えております。
宮本武蔵の著わした「五輪書」資料⑨の中に「千日の稽古を鍛とし、万日を錬とす。」とありまして、鍛錬の重要性を繰り返し説いております。剣の道は、書と違って、少しでも鍛錬を怠ると、いくら念仏なんかを唱えたところで、切られて死んでしまうのですから、鍛錬を自分の命に直結するものとして捉えていたんですね。
「千日を鍛、万日を錬」ですから、単純に日数計算しますと30年になるんですね。
私の書歴と大体同じですけれども、30年間たえず鍛錬を実行できたかといえば、反省するばかりです。


では、最後の話題とさせていただきます。
「個性」について少しお話しさせていただきます。
私が本格的に書にのめり込んだころ、20台前半のころでしょうか、あることに特に悩んだことを覚えております。
それは「山口先生にそっくりだ」ということだったんですね。
当時、山口先生の技術力の高さに比べれば、自分の力量などその足元にも及ばないと思っておりましたので、今もそうなんですけど、先生に似ていると周囲の方から言われても、まんざら悪い気はしなかったのですが、これが展覧会の都度都度、周囲の大勢の諸先輩方諸先生方から顔を合わせるたびに指摘されるようになりまして、かなり精神的に負担であった時期がございました。まあ、ご指摘はごもっともでありまして、私のためを思ってのご鞭撻であるということは重々分かってはいるのですが、では、どうのようにしていったらよいのかということが分からずにおりました。山口先生の雰囲気から少しでも離れた感じのする何か一つ古典を選んで臨書を徹底したらよいとのアドバイスもあり、王澤なんかを臨書したりもしたのですが、どうも自分の欲しいと思う用筆と違っておりまして、全く気が乗りませんでした。今でもそうなのですが、やはり当時は特に、高塚竹堂先生のように垢抜けたといいますか、浪漫的でスマートな山口先生の書に心底惚れ込んでおりましたので、その用筆を自分のものにしたくてたまりませんでした。山口先生の書を直接臨書することができないときでも、先生の巻紙やペン字のコピーをB5判に製本しまして、いつでも眺め、目習いができるようにしておりました。
山口先生の書風から早く卒業しなければならないという気持ちと、先生の書に対する恋しい気持ちがぶつかり合って苦しくなりました。
そんな中、当時山口先生は「學書階梯」という月間の競書雑誌を発行されておりまして、その中に短歌のコーナーがありまして、その批評を、もうお亡くなりになってしまいましたが、アララギ選者で土屋文明なきあとは新アララギの代表までお勤めになられた宮地伸一先生にお願いしておりました。私は「學書階梯」の編集をお手伝いしておりました関係で、宮地先生とは毎月の原稿のやり取りなどで、頻繁にお目にかかることがございました。ある時、師匠そっくりで悩んでいる旨を宮地先生にお話しする機会がありまして、その時にご紹介いただいたのが島木赤彦の「歌道小見」という本でございました。「古歌集と自己の個性」という部分を資料⑩にお示しいたしましたが、読んでみますと、「私が万葉集及びその系統を引いている諸歌集に親しむことが大切であると言うのに対して、世間往々反対の説をなすものがあります。歌は素(も)と作者自身の感情を三十一音の韻律として現すべきものである。それであるのに、千年以上も昔の歌集を読んで歌の道を修めよというのは、生き生きした現代人の心を殺して、千年前の人心に屈服せしめようとするものであって、少くも現代人の個性は現れるはずがないというのであります。この説一通り御尤もでありますが、人間の根本所に徹して考えた詞でありません。歌には歌の大道がある。その大道の由って来る所に拝礼するのは、自分の今踏まんとする大道を拝礼することであり、自分の踏まんとする大道を拝礼することは、自分の個性を尊重する所以になるのであります。仏教の真の行者は、皆、己れを空しくして釈尊の前に礼拝します。己れを空しくし、いよいよ空しくして、一向専念仏に仕える行者にして、初めて、真の個性を発現させることが出来ます。法然、親鸞、道元、日蓮の徒皆この類でありましょう。この消息に徹せずして、今人説く所の個性は、多く目前の小我でありまして、有るも無きもよく、無ければなおよいほどの個性であります。これを歌の上で言えば、正岡子規であります。子規は、歌の上で絶対に万葉集を尊信しました。万葉集を尊信した子規の歌が、古人に屈服して個性を滅却しておわっているかどうかということは、子規の歌を見て分かりましょう。・・・(中略)・・・私が万葉尊信を言うを見て、個性滅却の言となすものも往々あるようであります故、一言の弁解をして置くのであります。」
宮地先生は、この島木赤彦の部分を私に示されて、周囲の意見など気にせずに、師匠に徹せよとアドバイスをしていただいたのでした。
師風をとことん徹底して、その師風の頂点を突破してはじめて、真の個性が発現するというのであります。
師風の徹底が中途半端なうちにもかかわらず、早く人と違ったものを作らなければなどという欲にかられて、先ほどの島木赤彦のいうところの目先の小我ばかりを追い求めては、そんな個性などは無いほうがよっぽどいいというのであります。
資料⑪にお示ししましたのは、田辺先生の昭和16年の作品、資料⑫は、山口先生の昭和22年の作品です。
いずれの作品も、高い鍛錬を経て、資料⑬に掲げた師匠である高塚竹堂先生に肉薄しているというよりも、その内側から師風を正に突破する瞬間のようなような印象であります。当然のように田辺先生、また、山口先生の晩年の作は、高塚竹堂とは全く違った個性を感じるのでありますが、これは、鍛錬の結果、まさに師風の頂点まで達し、このように、その頂点を内側から突破したからにほかならないと考えております。
さて、私はといえば、まだまだ鍛錬が足りませんので、師風の頂点までには生きている間にはたして行き着けるのかというレベルですが、途中脇道にだけは入り込まないように気を付けたいと思っております。

私からの話題は以上となりますが、本日の題目の「鍛錬のすすめ」は、なんと大それた題名をつけてしまったものかと、少し反省をしておりますが、実は私はいつも山口先生から、まだまだ書き足りないと、もっと書き捲らなければだめだと、ずっと言われ続けておりました。ある時、この「書き捲らなければならない」ということに対して、技術ばかりでなく知識を増やすことや人格形成も重要なのではないかと反論したことがありました。すると山口先生は「高い人格者であるならば鍛錬を怠るわけがないではないか」と諫められたことがありました。
恩返しができないまま、山口先生はお亡くなりになってしまいましたが、いつかは、先生の内側から、そのてっぺんを突破できたらどんなに先生も喜んでくれるだろうかと、出来もしない夢ではありますが、感慨にふけったりしております。
ということで、本日は鍛錬に纏わるお話をさせていただきましたが、結局のところ、鍛錬のすすめを宣言することで、私自身の戒めとなったというこということでございます。
この程度の書話で、お忙しい中皆様にご参加いただきまして、本当に申し訳なく思っておりますが、こんな程度でも、研究会で1コマ講義になるんだということで、気軽にもっと多くの同輩の方々が後続されることをご期待申し上げます。
本日は、ご清聴ありがとうございました。