書話2(書についての雑感)


魚を得て筌(せん)を忘れる

 「得魚忘筌(魚を得て筌を忘れる)は、中国のことわざで、良い書作品を創るための重要な心構えとされています。
 「得魚忘筌」のもともとの意味は、「漁師が魚を捕った後、その魚を捕るために使った罠を持ち帰ることを忘れてしまった。」ということなのですが、それが転じて「良い書作品を創るためには高度な技術が必要なのですが、一旦その技術を身に付けてしまうと、その技術について意識しなくなる。」また「技術を意識しているようでは、その技術は本当は身に付いていない。」という意味に使われるようになりました。
 日本でも昔から、何の創作にしても「心を無にして」などと言われますが、この中国のことわざと意味の方向は同じと思われます。
 「技術を意識しない」とか「心を無にする」と言っても、ただ何も考えずに、寝起きのボーっとした状態をいうのではないことは当たり前ですが、このあたりの概念は一応しっかりと考えておく必要があります。
 人間がまず何かを身に付けるには、最初は頭でいろいろ考えながら行います。
 例えば、幼児が歩き始めることを考えてみましょう。最初は一歩一歩バランスを確認しながらよちよち歩き出します。そして時に転んだり、柱に頭をぶつけたりしながら、「歩く」感覚を着実に覚えていきます。そのうち赤ちゃんの注意は「歩く」ことから段々遠ざかり、お母さんと歌いながら散歩をしたり、チョウチョを追いかけたり、お友達とかけっこをしたりできるようになります。
 結局、この赤ちゃんは、「歩くことに関しては無心になった」ということができます。
 ここで一つ重要なポイントは、「赤ちゃんは、自分から意識的に無心になろうとしたのではない」ということです。繰り返しの技術の習得が「無心」を生んだのです。
 書の極意の「無心」もこれと全く同じで、よくある話しが、良い作品ができないのは心に邪念があるからだと、何とかして無心になろうと滝に打たれたり、禅寺に入門したりした人がいたなどということを聞くことがありますが、これは全く知恵の浅い幼稚な思考です。
 「無心」になりたければ、繰り返し技術の鍛練をすればよいのです。

細太の変化

 書作品の美を構成する要素の一つとして、かなりの重要なものであるにもかかわらず、とかく見過ごされやすいのが線の「細太の変化」です。
 この理由は、日頃「細太の変化」による印象の違いを私たちは直感的に感じているためで、例えは極端ですが、私たちが日常においていちいち空気の重要性を意識しないのに似ています。
 試みに本の活字(この場合は明朝体)を観察してみましょう。
 活字を注意深く見てみると、大抵は「縦線が太く、横線が細い」ことに気付かれることでしょう。
 このように「細太の変化」は、文字を扱う上では、ほとんど私たちの日常と言っても過言ではありません。
 私たちが物を見る場合、直感的にその物の「重さ」を感じ取ろうとします。ただしその感じは、今までの私たちの実際の肉体的な経験に基づいていて、ある一定の基準を持っています。
 同じ長さの線であれば、太いほうが重たく感じます。
 活字で縦線が太くて横線が細い理由は、私たちの物を見る感覚の基準に「支える柱は頑丈に太くなければならない、支えられる各階の床は軽くなければならない」という経験に基づいたものがあるからです。この場合、縦線が柱で横線が各階の床です。
 文字を書いて、それが全体的に重たく感じ、どこか切れが悪い場合は、大抵は細太の変化に欠けていることが多いのです。
 細くならなければならない線が太かったり、縦横何本も同じ太さの線が交叉していたりしています。
 細太の変化を十分に認識するために、一度極端なことをしてみることをお勧めします。
 例えば、木偏の一画目の横画は、穂先の方向と送筆の方向を90度に違えて、筆の穂の長さ位に線の太さを出します。そして、二画目の縦画は、穂先の方向と送筆の方向を180度に直線上にして、筆圧を極端に抑えて針金のような細い線を書いてみます。
 これを何度か繰り返す内に、段々と起筆の扱いと筆圧の加減による線の細太の違いが解ってくるでしょう。
 今以上に「細太の変化」に注意してみて下さい。

運動の記憶

 最近では、書道に限らず芸術全般について、「芸術は一瞬のひらめきが全てである」とか「人間の意識を超越したものが芸術を創造する」などと言われ、素人目には、何だか芸術を志すには特別神懸かった人でなければならないような気さえしてしまいます。
 今の例は少し極端ですが、元々「術」という文字を人間の行った行為に対して与えるその動機は、その行為に対する驚きに他なりませんので、こういう言われ方も判らない訳ではありませんが、自ら練習を重ねて、これから「芸術作品」を創造していこうとする私たちは、この例のような短絡的な考え方に陥ることには気を付けたいものです。
 前置きはこのくらいにしまして、書を学ぶうえで一番の基本となるものは他でもない「記憶」です。
 子供は、親のまねをして大きくなります。女の子などはお母さんの口癖そっくりになったりします。学校へ行くようになると、今度は先生や友達、またはテレビの主人公のまねをしたり、勉強でもまず暗記することから始めます。社会へ出ても、会社の習慣や上司の仕事ぶりのまねをします。結局人間は、まねすなわち「記憶」をしないと育たない生き物なのです。そして私たちはこの沢山の「記憶」をもとに、さまざまな身の周りの事象に臨機応変に対応しているのです。
 ここで一つ注意する点があります。芸術やスポーツなどに必要な記憶は、通常の学問のとは違った「運動の記憶」であるということです。
 運動の記憶は非常に複雑で、例えば筆を持つということだけ考えても、筆に触れる指の皮膚の感覚、紙面に対する筆の角度の感覚、筆を胸の前に掲げる腕の感覚等々、細かく見ていくと切りがありませんが、これらの感覚は、私たちの身体中にある無数の感覚器官によって中枢神経に記憶されます。
 ところで、中枢神経の記憶は「記憶され難いが忘れ難い」という特徴があります。したがって、その特徴を書を学ぶことに生かすためには、「有効な運動を繰り返す」以外にありません。
 古典や師、または気に入った先人の書の細かな部分についてまで良く観察し、どういった加減の用筆でこのような線が書けるのかを、繰り返し練習するのです。有効な運動の記憶のためには、量よりも質の勉強が決め手になります。
 これらの鍛練の結果は自ずと作品に現れ、鑑賞者はその作品に「芸術」の称号を与えることでしょう。

効率のよい書の学習方法について

 書を学習できる時間は個人で異なります。
 とかく会社勤めをしている方などは時間がありません。
 そこで、個人の生活のリズムにあった、できるだけ短時間で効率の良い学習方法を確立する必要があります。
 書は、腕や手指を微妙に使って行われ、また、筆の構えや姿勢も重要となる、いわば身体運動の一つです。
 身体運動は、その大部分が小脳や間脳、脊髄などの中枢神経系により行われており、これは一旦記憶されると忘れ難く、大脳による意識的な作用とは区別されます。
 最近の脳生理学では、この中枢神経系の働きは単に歩行や姿勢といった身体運動 にとどまらず、言語活動や定例的な思考活動にまで関与しているという研究結果も出されています。
 昔から「身体で覚えたことは一生忘れない」などと言われていますが、これは人間の中枢神経系による身体運動の記憶の仕組みを言い表しています。 コンピューターで言うところの記憶半導体RAMとROMの働きに似ています。 身体運動の中枢神経への効率の良い記憶方法は、同じ動作を繰り返し行う以外にありませんが、書を効率よく学習するためには、どのような動作をどのような方法で繰り返し行えば良いのかということが問題になります。
 私の経験から、50から100文字程度の漢字仮名交じりの現代文の手本を、毎日15分繰り返し練習すれば、1週間ほどで手本の全文が暗記できて、1ヶ月も経てば手本とほとんど変わらないほどにそっくりに書けてしまいます。その頃になると、もうその手本には飽きてしまうので、2ヶ月目にはまた違った手本を、今度は大筆でやってみようというふうに続けます。
 実際、かなり名の通った書家でさえ、1年に1つ、例えば今年は蘭亭序の全臨をやっていこうなどというように決めて、こつこつと中枢神経への記憶作業を行っています。
 だまされたつもりでこの勉強方法を3ヶ月も続けると、自分でも驚くほど何の抵抗もなく筆を扱えるようになり、書展にも出品できるくらいまでに上達することでしょう。
 長い一生の聞のうちのたったの3ヶ月間です。だまされたつもりで試してみる価値は十分にあると思います。

字外の筆

 書は、紙の上に墨を使って表現しますが、表現された文字は、用筆の結果であって、いわば用筆の一部にすぎません。
 あまりに唐突すぎて解り難いかもしれませんが、この「用筆の一部」ということを、文字を書くときの用筆を時系列に細かく見ていくことによって確認してみましょう。
 文字を書くには、まず筆を執って硯で墨を含ませます。そして徐ろに穂先を扱いて半紙の大きさと字粒を見当付けながら、落筆の位置を中心に腕を軽く大きく回転させ、その回転を段々速く小さくしていって的確を心掛け落筆します(これは、絶対にしなければならないということはありませんが…)。ちょうど大鷲が狙った獲物を上空から捕獲する時に似ています。
 落筆するやいなや、今度は送筆の方向と距離を見当付けながら、思ったとおりの線の太さになるように筆圧を加えます。しかし少し筆が進んだところで、最初に考えたとおりの方向や太さになっていないことに気が付き、送筆の速度などを利用しながら微妙に修正したりします。
 終筆の部分では、送筆の勢いと穂先の弾力で自然に筆が立ちますが、うまくいかなかった時には、もう一度その場で筆圧を加えその力によって跳ねかえろうとする穂先の弾力を利用して直筆に持ち込みます。
 こうして書き終えた一画ですが、また直ぐに次の画が待っています。私たちは普通、一画毎にその都度あらためて線を引くことを意識するのではなく、一本を書いている最中にいくらかでも次の画を意識していて、それは丁度、最初の一画目を書き始めるときにした旋回運動のようなものを、実は無意識にリズムとして一画目を書いているその抑揚の中で表現しています。そしてそのリズムが途切れないように、次の画へはそのリズムにあった調子で弾みを付けて、空中高く筆を移動させます。
 以上が、少し回りくどくなりましたが、用筆の実際です。
 このことから判るように、一口に「用筆」と言ってもいろいろな場面があります。
 そして、どの場面の用筆もそれ単独では成り立たず、前後の用筆に密接に関係します。したがってどれ一つとして決してゆるがせにできるものではありません。
 表題の「字外の筆」とは、今まで説明した用筆の中で言えば、まず最初の一画目を書き始める時の旋回運動や次画へ移るときの調子を持った筆の動きのことです。
 古人は「字外の筆」について、筆が紙に接している時の用筆と同等またはそれ以上に紙から筆が離れているときの用筆が大事であると伝えています。

書の鑑賞について

 最近では至る所で美術展や芸術展が開催され、また新聞や雑誌などでも芸術が大流行で、当然に書を目にする機会も多く、私達は知らず知らずのうちに書を鑑賞しています。
 普通、芸術作品を「味わう」という意味で「鑑賞」の文字を用います。自然の草花などを愛でるときは「観賞」を使い、これとは厳密に区別されます。
 ここで、ちょっと面白いことに気付かれたかと思います。
 私達の普段用いる日本語には、少し変わった言い回しがあります。芸術作品は「目」で認識されるにもかかわらず「味わう」というふうに「舌」の感覚の表現がされています。
その他には「匂うような美しさ」とか、また日本古来の香道と呼ばれる芸術では「香りを聞く」などと言われます。「利き酒」も「聞く」から派生したものと言われていますし、可愛らしい小動物に手や頬を触れて「愛でる」ことも元は「見る」感覚から来ていると言われています。
 これらいわば五感を混同したような言い回しがなされるのは、一体何故でしょうか。単なるスラングが定着しただけであるという言語学者もいますが、私は、このような言い回しがなされる必然的な理由が他にあるのではないかと考えます。
 一幅の書の掛軸を目にしたとき、私達は「これは書である」とか「これは何と書いてあるのか」などとあれこれ考えを巡らす前に、それを目にした瞬間にその書が持っている美を直に感じます。普通、あれこれと考えを巡らすのは、この美しさによる感動の波が段々と小さくなってから可能となるのです。
 五感混同表現の理由も、多分、美が認識されて感動を開始した瞬間には、私達には「どの感覚器から入ってきた刺激かすら判らない」ためなのではなかと思っています。
 書に限らず、芸術作品は「直感」によって瞬間的に味わいます。そして感動するかしないかは、その作品が持っている美の大きさにのみ関係があります。「この作品は有名だから何とか感動しなければ」などと考えるのは本末転倒です。
 ある美人を見て、類い希なる美しさに暫し時の経つのを忘れ、その魅惑に一瞬惑わされた後、少し間を置いて、そう言えばこの人は目鼻立ちが整っているとか、髪が奇麗であるとか分析するのです。
 カントは、「判断力批判」という著書のなかで、これらの現象を「感性(直に感じる特性)」と「悟性(後に理性によって分析されるためにまず現象の区分けをする特性)」という表現で説明しています。
 「鑑賞」は、自分の「直感」のみによって行われるのです。

初心に帰る

 人はよく牛歩の如くとか、初心に帰るとか、書き込むとか言いますが、どうも口先きだけに終わってしまう感じがしてなりません。
 そこで、習い方の基本的な形として、ウ冠の草書を勉強する場合を例に挙げてみることにしましょう。
 一画目の点の打ち込みの角度・筆圧と太さ・抑揚・筆を引き抜く要領。二画目の起筆の点からの受け方と位置・起筆から右へ送筆するときの筆圧に合った太さの度合い、送筆の角度と抑揚・速度。転折までの線の長さと点との距離、点から仮に引き下ろした線に対する二画の左右の長さの違い。転折部から左へ引き下ろす線の角度や太さ等々。
 ウ冠一つ書くのにも、これくらいの注意を払って、何回となく手本に肉薄するまで習うのです。丁度初学のころもそうであったように、習う時はいつも初心に帰るのです。
 この要領で次々と習ってからまた、元に戻って再度ウ冠を書いてみるのです。もうすっかり手に入ったと思っていても、記憶が曖昧だったりして、手本を見直さなければ書けないということがあります。その時は再び最初に習ったようにやり直すのです。そうすると、時に今まで気付かなかった新たな発見があったりして、自信が付くことがあるものです。次の日も、次の日も、同じことを繰り返すこともあります。
 こんな風にして根気よく、何度も何度も手本無しでも手本に近い書が書けるまで続けることが必要なのです。この習い方が、他でもない「初心に帰る」ことであり、これ無しでは実のある書はできないと思います。確信を持って書くためには、これしかありません。
 実は、同人や審査員などになられた方々は、特にこのことを戒めとしたいところです。芸術家気取りで、基本の勉強を疎かにするようなことがあったりしては、進歩は望めないどころか、腕は日増しに落ち、そのうち周囲から見向きもされなくなるでしょう。10年20年経ってから「失敗した」と気付いても、もう取り戻すことはできないのです。
 普段から「初心に帰る」ことを心掛けましょう。

臨書について

 臨書については、昔から書を学ぶうえで特に重要であるといわれてきました。
 皆さんもよくご存知の「書譜」をはじめ、過去から様々の書論の中で、臨書の重要性が説かれています。
 清時代の書家・王虚舟の書論には「臨古は須く(すべからく)我有るべし」と言い、また同時に「臨古は須く我無かるべし」と言っていますが、これは、矛盾しているということではなく、臨書に対する望ましい姿勢を的確に言い表しているのです。
 一般にはこの姿勢について、単に形式だけを捉えて、「意臨」「形臨」という言い方をしますが、臨書の本質について誤解を生じさせることが多いので、私はこれらの言い方をあまり好みません。
 臨書に対するには、まず自分がなければなりません。
 どのような用筆の結果このような線になっているのか、入筆の方向や筆圧の加減を細かく見て、同じような線や形が再現できるまで何度も何度も繰り返し試してみるのです。
 自分からこれらのことを主体的に試みるのです。
 これらを何度も繰り返しているうちに、何故このような起筆位置や入筆の方向でなければならないのか、何故その部分に加圧されているのかなどが段々と解ってきて、確信をもって線を引くことができるようになるのです。
 こういった主体的な行動は、「もうこれ以上細かく見るのは疲れたな」とか「手本どおりの線が引けないけれどもう諦めてしまおうかな」などの怠惰な自分や注意深さの無い無神経な自分を無にしなければ行えません。
 古人の言う「臨古は須く我有るべし、臨古は須く我無かるべし」ということの意味を解りやすく言えば、「書の向上の妨げとなる「怠惰な自分」や「無神経な自分」を極力排除して、確信をもってすべての線が再現できるよう積極的に探求せよ」ということなのです。
 確信なくただ惰性で臨書をしていては、いつまで経っても向上は望めません。

臨書について(その2)

 今回は、臨書の第2回目として、臨書の効用についてお話ししてみたいと思います。
 書を勉強する上で、臨書は重要であると言われていますが、それでは、具体的にどのような効果があるのでしょうか。
 文字を書くには手指などの筋肉を使用するので、書の上達には、まずこれらの筋肉の鍛錬が欠かせません。
 ところが、臨書をせずに自分流の文字ばかり書いていたのでは、いつも同じような方向や加圧の要領でしか線を引かないため、一定の筋肉しか使用せず、それ以外の筋肉の発達が遅れてしまうことになります。
 そこで、師匠の手本でも古典でもいいのですが、これら他人の書いた文字を臨書することで、いつものとは違った筋肉を鍛えることができ、これによって段々と線や形に表現の幅が広がるのです。
 次に、臨書を何年も長く続けていると、目で見たものをそっくりに書く力が身についてきます。このことは、美術や絵画の世界で言われる写生力と同様のものです。それらの力とは、目で見たものを詳細・正確に認識する力や、認識したイメージをそのとおり表現するための脳から筋肉への指令の的確さということになりましょう。
 実は、人間が文字を書く場合、無意識のうちに頭の中で一定の事前のイメージを持っています。そして、このイメージどおりに表現されるよう、脳から筋肉に対して指令がなされ、書き文字となるのですが、このことは、いわば頭の中にあるイメージを臨書していると言っていいでしょう。臨書を継続し表現する力を鍛えることで、脳からの指令の的確さが増し運筆がより安定するようになります。
 これらの効果は、普段はあまり意識する必要はありませんが、ただ闇雲に書き捲くる前に、どんな効果が臨書に期待できるのか、少しは理解していたほうがよいでしょう。
 なお、臨書に選ぶ古典は、自分にない書風のものを選ぶようにすると、その分、表現に幅がでます。例えば、字姿はスマートでも懐が狭く何となく窮屈な感じの字を書く方(師匠の手本ばかり習っている方に多い)は、孫過庭の書譜などのゆったりとした古典を選ぶようにすれば、その古典がすっかり自分のものになった暁には、スマートでしかも余裕の感じられる崇高な書が書けるようになるのです。

新しさについて

 毎年、11月の文化の日から翌2月の建国記念日あたりにかけて、各地で様々の展覧会が開催されています。この中には当然、書の公募展もあり、各人が一世一代の蓋世をかけて創作活動を行うことは、芸術振興のうえからも大変に好ましいことです。
 さて、このような他人と比較される場に自分の作品をさらし、評価を受けとするとき、少なからず人は、「他人とは違った何か新しいもの」を表現しようと考えます。
 世間一般には、どうも「新しさ」と「奇異」が混同されてしまっているようです。
 「新」を字源からみると、「木を斧で切る」ことからできているとされ、斧で枝を掃った後に、青々とした若い枝が生えてくるイメージがあることが判ります。
 ところで、桜の木の枝を掃ったあとには、当然また同じ桜の枝が生えてきます。梅や他の木の枝が生えてくることは絶対にありません。
 あまりに当たり前のことで、いまさら何を言っているのかと思われるでしょうが、実は、このことは、私たち創作を志す者にとってとても重要なある示唆を与えてくれています。
 新しい枝は、古い枝のそれまでの生命の営み一切を尊重し、まるでその古い枝の分まで若い命を謳歌させるがごとく息付いています。
 その息吹を目の当たりにした時、人はそこに「新しさ」を感じるのです。
 これが桜ではなく、突然ほかの木の枝が生えてきたら、それは「新しい」のではなく、「奇異」なだけです。
 このことから、「新しい」とは、昨日と今日が根っから違ってしまうものではなく、過去の営みの合理性を一心に引き継いでいなければならないことが判ります。
 芸術の創造についてもまったく同じで、例えば、古典にない用筆だからと「前衛」を唱える風潮も以前ほどではないにしても、まず、古典に裏打ちされた強さがなければ、それは単なる薄っぺらで「奇異」なものであって、到底、人の心を動かすものにはなりません。
 作品の創作にあたっては、このことを特に肝に銘ずる必要があります。そうしないと、出来上がった作品は、きっと奇異でいやらしい強引なものになってしまうことでしょう。
 過去からの生命を引き継いだ新しい桜の枝からは、強引さなどは微塵も感じらず、その姿は寧ろ控えめでさえあります。
 普段から古典の臨書を間断なく行って技術の蓄積を欠かさない心掛けがあれば、いつしか「新しさ」は自然に出てくるものです。

用筆の基本

 書は道具として筆を使う以上、この筆を上手に扱えないとうまくいきません。
 このため、筆の本来持つ機能に沿った理に適った用筆法を身に付ける必要があります。
 それではまず、筆の本来持つ機能とはどのようなものなのか考えてみましょう。
 筆には、大きく太いものから小さく細いものまで色々な種類があり、また、毛の長いもの短いもの、硬いもの軟らかいものなど、それらすべてを区分すべき特長して考えるとすれば、それこそ無数の形体があります。
 しかしながら、この無数の形体があるにもかかわらず、どの筆にも共通している一定の形があります。それは、「毛筆が筆管から円錐状に伸びている」ということです。稀にペンキの刷毛のように扁平なものや、日本画で使用するような小さな筆を幾つか束ねたものなどがありますが、これらは例外であります。
 この「毛筆が円錐状である」ということは、筆の機能上、どのようなことが言えるのでしょうか。
 それは、「円」であること=「どの方向にも運筆できる」ということになります。
 様々の種類がある筆も、機能面からみれば実は単純で、どんな筆でも「いろんな方向に線を引ける」という特性があることが解ります。
 文字は色んな方向の線を幾つも組合わせて出来上がっています。「永字八法」などと言われるように、横画、縦画をはじめ、右払い、左払い、転折、はね等、また、草書や仮名などでは時に右周りや左周りへ弧を描いたりと、一本の筆だけで色々な方向や形状の線を引くことが必要となります。このために筆は「毛筆が筆管から円錐状に伸びている」のです。したがって、筆の本来持つ機能とは「どの方向にも線が引ける」ということなのです。
 ところで、ここで重要なポイントがあります。それは、この「どの方向にも線が引ける」という筆の機能には、いわば一つの欠点があります。それは、「線を引き終わった後に毛筆が元の状態のように立っていないと、次なる新たな方向には線が引けない」ということなのです。毛筆が円錐状なので、筆管を垂直に持っていさえすれば、確かに最初の一画はどの方向にも線を引くことができます。ただし、何もせずそのまま収筆を迎えてしまうと、毛筆は一方向に寝たままになってしまい、二画目が一画目と違う方向の線である場合は、二画目の起筆から毛筆がぐしゃぐしゃになって線が引けなくなってしまいます。
 そこで一つの要領が必要になります。それは、毛筆の僅かな弾力を利用して、収筆までの間に、毛筆を立たせ、丁度一画目を書き始めた時のように、筆管から垂直に毛筆が伸びている元の状態に戻すのです。もう少し具体的に言えば、起筆から送筆に移った瞬間に筆圧をかけます。すると毛筆には弾力があるので、その筆圧を撥ね退けようとする抗力が働きます。この抗力によって、それまで寝た状態の毛筆が、元の垂直な状態に戻ろうとするのです。そして収筆になるころには、ちゃんと立つことが出来て、例えば二画目を一画目と反対の方向に引こうとも、穂先が割れることはありません。厳密に元の穂先の状態にそっくり復元するわけではありませんが、イメージとしてはこのように捉えてください。
 書における用筆の基本とは、結局、この要領を如何に会得するかにかかっているといっても過言ではないのです。そして、書が用筆芸術である以上、この要領を基本として、無数に存在するであろう創作場面において、さらなる高度化を目指し一生涯かけて研鑽していくものなのです。

書法の着眼点

 私が普段、書作品を審査し評価する場合、一体どれくらいの項目に着目しているのかを以下に整理してみたところ78項目になりました。
 まず技術面と精神面の2章に大別し、技術面は、基本的用筆、間架結構法、布置章法、筆勢の4節に、精神面は、選択用筆の適時性、気質、自己評価の程度の3節に体系的に分かれています。
 実際の審査にあたっては、これらすべてを項目順にチェックするという作業を行っているわけではなく、どちらかといえば感覚的・直感的に作品を評価するのですが、気になる部分がある場合は、決まっていつも以下の項目となるといった具合です。皆様の日頃のご研鑽の一助となればと思い掲載いたします。

【技術面】
・基本的用筆(起筆、送筆、収筆の筆致(転折・祓い・跳ねを含む)、加圧)
  1 空画の動きを受けて理に適った起筆がなされているか
  2 起筆が慎重または無造作に過ぎていないか
  3 送筆初期における加圧が充分であるか
  4 送筆初期での加圧による筆鋒の弾力を活かした送筆がなされているか
  5 送筆が慎重または無造作に過ぎていないか
  6 送筆が作為に過ぎないか
  7 安定した送筆がなされているか
  8 送筆中または収筆に向かって無意味な加圧がなされていないか
  9 収筆で筆鋒が頓挫していないか
 10 作為に過ぎる収筆となっていないか
 11 転折で筆鋒が頓挫していないか
 12 作為に過ぎる転折となっていないか
 13 慎重または無造作に過ぎる転折となっていないか
 14 転折で加圧が足りないまたは必要以上の加圧となっていないか
 15 慎重または無造作すぎる祓いとなっていないか
 16 筆鋒の弾力を活かした祓いとなっているか
 17 伸びやかな祓いとなっているか
 18 作為に過ぎる祓いとなっていないか
 19 祓い中に無意味な加圧がないか
 20 筆鋒が頓挫した跳ねとなっていないか
 21 慎重または無造作に過ぎる跳ねとなっていないか
 22 作為に過ぎる跳ねとなっていないか
・間架結構法(整斉と参差(バランス・デフォルメ)、点画の細太・長短変化、筆路)
 23 点画の整正(交差の定量的左右・上下バランス)は理に適っているか
 24 点画の整斉(点画の細太、筆勢、線質、空間の広がり・緊張度合い等を考慮した定性的バランス)は理に適っているか
 25 慎重または無造作に過ぎる参差(不調和・デフォルメ)となっていないか
 26 作為に過ぎる参差(不調和・デフォルメ)となっていないか
 27 慎重または無造作に過ぎる細太の変化となっていないか
 28 作為に過ぎる細太の変化となっていないか
 29 慎重または無造作に過ぎる長短の変化となっていないか
 30 作為に過ぎる長短の変化となっていないか
 31 筆路は明快であるか
 32 基本的用筆と結体とが同程度に考慮されているか
・布置章法(整斉と参差(バランス・デフォルメ)、文字の大小・長短・肥痩)
 33 布置の整正(布置の定量的左右・上下バランス)は理に適っているか
 34 布置の整斉(文字の大小、筆勢、線質、空間の広がり・緊張度合い等を考慮した定性的バランス)は理に適っているか
 35 慎重または無造作に過ぎる参差(不調和・デフォルメ)となっていないか
 36 作為に過ぎる参差(不調和・デフォルメ)となっていないか
 37 慎重または無造作に過ぎる大小の変化となっていないか
 38 作為に過ぎる大小の変化となっていないか
 39 慎重または無造作に過ぎる長短の変化となっていないか
 40 作為に過ぎる長短の変化となっていないか
 41 慎重または無造作に過ぎる肥痩の変化となっていないか
 42 作為に過ぎる肥痩の変化となっていないか
 43 調和対応(前文字、隣文字、隣行との関係、全体のバランスを考慮した布置、文字姿態変化、肥痩変化)は理に適っているか
 44 基本的用筆と結体と布置が同程度に考慮されているか
・筆勢(運筆のリズム・伸び、線質の変化、遅速緩急、筆先・筆鋒のテクスチャ(織りなし))
 45 運筆のリズムは自然なものであるか
 46 運筆の伸びは充分であるか
 47 作為に過ぎる運筆のリズム・伸びとなっていないか
 48 慎重または無造作に過ぎる線質の変化となっていないか
 49 作為に過ぎる線質の変化となっていないか
 50 慎重または無造作に過ぎる遅速緩急の変化となっていないか
 51 作為に過ぎる遅速緩急の変化となっていないか
 52 筆の表裏が理に適って遣われているか
 53 慎重または無造作な筆先・筆鋒のテクスチャ(織りなし)となっていないか
 54 作為に過ぎる筆先・筆鋒のテクスチャ(織りなし)となっていないか
 55 調和対応(前文字、隣文字、隣行との関係、全体のバランスを考慮した線質変化)は理に適っているか
 56 基本的用筆と結体と布置と筆勢が同程度に考慮されているか
【精神面】
・選択用筆の適時性(表現された事象に対するもの、自己の実力・境遇に対するもの)
 57 選択する用筆が、その時点までに表現された事象の相乗的な効果あるいは欠損の補完や変化の程度を考慮して選択されているか
 58 基本的用筆が普段の鍛錬によって十分に身に付き、それが自然に発揮されてものであるか
 59 間架結構法が普段の鍛錬によって十分に身に付き、それが自然に発揮されたものであるか
 60 布置章法が普段の鍛錬によって十分に身に付き、それが自然に発揮されてものであるか
 61 筆勢が普段の鍛錬によって十分に身に付き、それが自然に発揮されたものであるか
 62 作為に過ぎる用筆を用いていないか
 63 現時点の実力を真摯に表現しようとしているか
 64 現時点以上の実力を表現しようとすることに気負いはないか
 65 奇を衒うことが芸術であるとの誤った認識に立脚していないか
・気質
 66 覇気があるか
 67 事象を反省し表出に活かしているか
 68 細かなことに頓着しすぎていないか
 69 細心の注意を払っているか
 70 気質が安定しているか
 71 瞬時にかける気迫があるか
 72 穏やかな性情を好むか
 73 躍動的な性情を好むか
 74 萎縮していないか
 75 中庸を保った気質であるか
・自己評価の程度
 76 自己の実力を過小または過大に評価している風はないか
 77 自己の実力を技術面のみで評価している風はないか
 78 自己の実力を技術面を無視して評価している風はないか

執筆法について

 執筆法、すなわち筆を握る方法については、「単鉤法(たんこうほう)=人差指を1本だけ筆管にかけて握る方法。いわゆる鉛筆持ち」や「双鉤法(そうこうほう)=人差指と中指の2本を筆管にかけて握る方法」、「四指斉頭法(ししせいとうほう)=4本の指を揃えて筆管を握る方法」などが知られているところです。
 執筆法を真に会得するうえで最も重要となるのは、「手首や指をむやみに動かさず、腕の動きだけで運筆するように心がける」ということです。手首や指をむやみに動かさないほうがよいということは、故人の書論にもよく説かれていることなのですが、その理屈としては、次のことが考えられます。
 軟らかい毛筆を遣って線を安定的に引くためには、起筆から収筆まで直筆が維持されなければなりません。そのためには、筆管を垂直にしたまま紙面に並行に筆を移動させることが必要となります。もしこの時、指などが動いてしまうと、筆管は並行移動ではなくなり、空中のある1点を軸にして一定方向に筆が寝てしまい、直筆が維持できなくなってしまうからです。
 実際の書作には、厳密に全く手首や指を動かさないといったことはなく、ある程度の不安定さから出る線の妙味も利用するのですが、まず基本は、この安定さを確立することから始める必要があります。くれぐれも、確固たる安定さを確立する前に、不安定さばかり追及するといった茶番には注意が必要です。
 ちなみに、私の執筆法は、専ら「双鉤法」です(大字を書く場合は四指斉頭法になります)。初学のころ、より指の動きが抑えられるとの理由で師匠から勧められたのですが、当時は、その重要性が今ほど解らずにおりました。何時だったか、細字の線の安定さが師匠のそれに程遠いと痛切に感じ、一念発起、試行錯誤の末、さも自分の手首から筆が直接生えているかのような感覚をもって、徹底的に手指を動かさないことを心がけて訓練に励んだことを覚えております。
 皆さんも是非、腕だけで運筆するよう練習されることをお勧めします。半年なり1年なり経つうちには、きっと今以上に執筆法が確立し、線に安定さが増すことでしょう。