芸術の基本


● 目次 ●

 はじめに

 1 生活と芸術

  1・1 芸術に対する世間一般の考え方

  1・2 現実の生活から見た芸術

  1・3 芸術という称号を与える動機

 2 芸術の構造

  2・1 芸術の特徴

  2・2 表現とは

  2・3 芸術が科学的に分析されなかった理由

 3 芸術の基本

  3・1 精神と肉体について

  3・2 人間の精神活動について

  3・3 認識と表現について

  3・4 芸術を決定付けるもの

  3・5 芸術の定義

  3・6 美の本質

  3・7 芸術の効用について

  3・8 芸術の分析について

  3・9 精神活動の分析

 4 芸術学への誘い 

  4・1 表現形式と表現内容

  4・2 感情移入について

  4・3 芸術家の条件

  4・4 心そのものとしての表現

  4・5 善なる行動とは

  4・6 芸術の基本(短編)

 

あとがき

● はじめに ●
 
 芸術については、昔から大勢の人々によって実にさまざまな議論がなされ、また色々な定義付けの試みがなされてきました。
 どれくらい昔から定義付けが試みられてきたかといいますと、いろいろな説があり一概には断定できませんが、芸術について最初に定義付けを試みたとして有名なところでは、紀元前三世紀のギリシャの哲学者プラトンであると言われています。
 プラトンは、この世の中を形造っている根元的なものとしててイデアという世界を定義付けし、そして芸術を創作する作業とは、そのイデアの世界から真理を抽出し、いわば現実の世界へ模倣して表現することであると考えました。
 これは、プラトンのミメーシス理論(芸術模倣説)と呼ばれていますが、これから考えても有に二千年以上は経っていることになります。  
 その間、多くの有能な哲学者・美学者などの理論が出されましたが、いまだに芸術についての明確な定義付けは終わろうとしていないようです。
 かの偉大なカントですら、観念論の立場から芸術に対する超人的な分析を行ったのですが、結局は鑑賞者の認識のあり方だという結論から脱し得ることはできませんでした。
 これらのことは私達に一体何を暗示していることになるのでしょうか。
 現実には、この世の中には過去から沢山の芸術作品が生み出され、これにより無数の人々が感動や喜びや畏敬の念を抱いてきました。これは紛れもない事実です。
 そしてこれら芸術は、すべて人間の手によって生み出されてきたものなのです。
 この一見分かり切ったことが、実は今までことごとく見落とされてきたのではないかと私は思うのであります。
 芸術とは結局、人間の生活に密接に関係したいわば実践的なものです。そしてその生活が形造られる根拠とは、人間の精神活動に他なりません。
 ですから、芸術を真に定義付けするためには、まずこの私達の生活の基となっている精神活動を科学的に分析し、そのあり方と関連づけて体系化しなければ、何時まで経っても宗教など非科学的なものと同位置で議論され、どこか得体の知れないものとして、極端な場合には芸術無用論だなどと、どんどんと議論が迷宮入りしていってしまうのです。
 さて、過去から現在に至るまで芸術に関する書物は、怠惰な私が目にするだけでも相当な数にのぼりますが、そのほとんどは必要以上に難解なものが多く、逆に比較的平易なものは哲学史や他人の理論の紹介で終わってしまうものばかりです。私が勉強不足のために感じることなのでしょうが、最近は特にこの傾向が強く、画期的な概念の提案や新たな定義付けの試みはあまりなされていないように見受けられます。
 美に関する定義としては、西田幾太郎の「善の研究」に及んでほぼ完成された様相を呈していますが、どのような仕組みで美が創造されるのかといった実践的な部分ではいまだ解り難い感は否めず、偉大なる氏もそれ以降は随筆的なものしか出していません。
 芸術は、作品としてまず感覚器を通して我々に「認識」できることから、この認識の仕組みすなわち「認識論」によって説明しようとされてきました。しかし私は常々、この手法だけでは芸術を解き明かすには片手落ちであると感じていました。なぜならば、芸術は作品として我々に認識される以前に、それとは丁度正反対の「表現」という実践的アプローチによってこの世に創出されたものであるからです。
 枚挙に遑ない芸術論の世界に本書を送り出す一番の動機は、
この表現の仕組みいわば「表現論」を確立することによって、どのようにすれば芸術を創造しうるかといった、より実践的な方向から芸術を定義付けしてみたいと考えたからです。
 芸術は、私たち人間が創造します。そしてその創造とは、私たちの精神の在り方の具現であります。
 本提案によって、人類にとって最も有用であるべき芸術がより科学的な学問として確立され、ますます発展してゆくことを願って止みません。 


日 沼 修 一    




【1 生活と芸術】

● 1・1 芸術に対する世間一般の考え方 ●

 私の生まれ育った東京の下町には、文化の森と言われる上野公園があります。公園内には立派な美術館や博物館、文化会館が建ち並び、中でも動物園に隣接する東京都美術館では、一年を通じて様々の展覧会や発表会が行われます。特に建国記念日や文化の日などには日に10~20もの会派の展覧会が同時に開催されて、とても一日では全てを回りきることは不可能なほどです。また、繁華街のデパートなどでも必ずと言っていいほど美術展や芸術展が開催され、人気の展覧会ともなると休日には長蛇の列ができ、時には一作品の鑑賞時間を数分に決められたりして、ゆっくり落ち着いて鑑賞することができなかったなどと苦情すら聞くことがあります。こういう現象が東京ばかりでなく全国的に行われているのですから、大変な規模です。企業もこのことに目を付けないはずはなく、需要の拡大のために自ら芸術推進を名目に投資したり、景気が過熱気味の時などには芸術作品自体を投機の対象や税対策の一つにすることなども行われました。
 これは何も日本に限ったことではなく、国家の芸術推進に対する財政支援の規模などからは、むしろ海外の方が芸術に対する価値を高くとらまえているようにも思われます。
 これらのことから、人々は相当に芸術に対して興味があり、強く芸術を求めているということが言えると思います。
 しかしながら、人々は本当に芸術について正しく理解した上でこれらの行動を起こしているのでしょうか。前述の興味の強さだけでは、この答えを導き出すことはできませんが、今現在まで発行されている各種の芸術関係論文の内容や考え方に様々な意見があることから考えても、残念ながらあまり良い答えは期待できそうにありません。
 世間一般に芸術は、前述の芸術の氾濫とは裏腹に私達の実際の生活とはあまり縁がなく、また非常に難解で、あるいは宗教などと同じように神秘的で、一部の芸術家と呼ばれ芸術を専門に研究しているごく限られた少数の人々にしか関係のないものと思われているようです。 


● 1・2 現実の生活から見た芸術 ●

 それでは、一応これらの問題は棚上げして、客観的に私達の実際の生活に目を向けてみましょう。
 私達の日常の生活を今一度振り返って見ると、その至る所に芸術といわれているものへつながっている事柄が多種多様に存在することに気がつきます。
 例えば、私達が身体を動かすことにしても、演技や演劇、舞踊やバレーといったものに通じています。声を出すことにしても物語や声楽に、文字を書くことにしても詩や書道になるといった具合に、また、これらの複合型として音楽やオペラなども考えられます。玄関に花を生けることも茶を入れることも、華道や茶道といったものに通じていますし、茶碗を焼くことも絵を描くこともそれぞれ芸術と呼ばれるものにつながっています。
 このように見てゆくと、結局、芸術と呼ばれるようなものは、私達の日常生活の中の様々な要素の一つというよりは、むしろ日常生活と切り離しては考えられない、言うなれば、日常生活そのものと言っても過言ではないように思われます。
 私達は、これらの事を明確な理論によって理解はしていないものの、自らの経験的な認識によって薄々は気付いているようです。ですから、世間一般の人々の芸術に対する興味や要求の強さは、自分の生活をより高めたいとか、より美しい充実したものにしたいとかいった、いわば人間が生きるうえでの基本的な欲求、すなわち生存の本能に基づいた自然かつ重要な要求であるということが言えます。
 後述いたしますが、当然に芸術の目的もここにあるのです。


● 1・3 芸術という称号を与える動機 ●                       
 私は以前、脳腫瘍の手術を受けたことがあります。
 幸い悪性ではなかったので手術さえすれば完治するとの主治医の言葉だったのですが、いずれにしても、頭蓋骨を開かなくはいけないということに、今までには経験したことのない途轍もない恐怖を感じました。頭蓋骨を開いて人間の意識・生命の中枢である脳の奥深くにメスをいれるなど、到底、並みの人間には出来るはずはなく、いかに医学を極めた有能なドクターであるといえども、どうしても手放しでこれを受け入れる決心が付かず、見舞いに集まった両親や親戚も皆お通夜のように塞ぎ込んだことを覚えています。
 9時間に及ぶ手術の結果、私は命拾いをしたのでありますが、私を含め両親や親戚は無上な喜びを覚えるとともに、主治医に対して畏敬の念を強く抱きました。「主治医は実は普通の人間ではなく、私の生命を蘇らせるために何か特別な「術」を使ったのだ」とさえ思いました。この「畏敬の念」が、主治医の行った行為に対して「術」という称号を与えたのでありました。
 生命を蘇らせることは人間には到底不可能なことです。既に死んでしまった人を生き返らせることが出来たとしたら、それはもう驚くしかありません。実際、この時私は既に死んでいたわけではなく、もしかしたら死んでしまうかもしれないという状態にあったのですが、極度の精神的不安が一気に解消された安堵から、生命が蘇ったと同じ驚きを感じたのです。
 私はこの経験を通じ、「術」という文字を使うに至った様々の言葉には、このような「人間には到底成し遂げることが不可能である思われていたことを可能にしたというような行為に対する、畏敬の念の発動といての称号付け」という意見合いが含まれているのだろうと考えるようになりました。
 例えば、何百人もの乗客を乗せて大空を鳥のように飛ぶ飛行技術、何百年も前に描かれた女体にもかかわらず未だに生きているかのように瑞々しい美しさを放っている絵画美術、人間の胴体を真っ二つに切り裂きまた元通りに蘇らせて見せる手品奇術、相容れない様々な意見を生き物の如く絶妙に調和させる会議話術等々、これらに使われる「術」は、いずれも人がまるで不可能を可能にしたかのような行為に対する「畏敬の念の発動としての称号付け」に他なりません。
 高村光太郎は、芸術は生命の創造であると言いました。この言い方はある種極論じみていすが、光太郎がこの言い方をしている文章の前段で、生命を人間自ら作り出したという新聞のニュース(たぶんクローンか体外受精のことか)を取り上げ、その驚きと芸術創造の驚きとを対比しているところを見ると、畏敬の念の発動が術であると考えていたとしても誤りではないように思えます。
 人々が作品を芸術と呼ぶその動機は、あまりにも美しいものを創作したことに対して、まるで人間の仕業ではなく「術」でも使かわれたかのように感じられた結果としての、その畏敬の念の現れなのです。

【2 芸術の構造】

● 2・1 芸術の特徴 ●

 芸術について正しく理解するために、まず芸術の特徴について考えてみたいと思います。音楽や絵画に限らず、私達が芸術と呼んでいるものは、いったいどのような特徴があるのでしょうか。
 まず一つ目は、当たり前のようですが、「人間が創造したものである」ということです。そんなことは言われなくても判っていると思われるでしょうが、この特徴が実は一番重要で、名のある哲学者ですら物事の細かな分析に没頭しているうちに、この当たり前の理解をいつのまにか置き去りにしてしまい、それどころか出来上がった複雑な理論を正当化するために、これを誤りだとするような本末転倒の議論までなされたりします。
 芸術は人間が創造します。人間以外が造り上げた芸術などは聞いたことがありません。何故ならば、芸術という言葉は、人間が創造した作品に対して与える称号であるからです。
 夜空に輝く満月は言葉では言い表せないほどの美しさを放っていますが、これを指して芸術だとは言いません。富士山は雄大で秋吉台の鍾乳洞の硫黄柱の造形は目をみはるばかりですが、結局、自然に出来上がったものは芸術とは言えません。ここでは美しさがあると言うべきでしょう。
 人間が創造するといっても、ただ無意識のうちにいつのまにか出来上がってしまったというようなものも芸術とは呼べそうにありません。ついうっかり誤ってシャッターを押してしまって出来上がった写真は、たとえどんなに美しいものであっても、このままでは芸術と呼べません。何故ならば、芸術の一つ目の特徴である人間が創造するものであるということのポイントは、人間の頭脳によってあれこれ工夫を凝らし、いわば頭脳を通過するというところにあるのであって、芸術は人間の思考・精神活動によって決定付けられるということになるからです。
 次に二つ目の特徴としては、一つ目の特徴を受けて、芸術は人間の思考・精神活動によってその思考・精神活動のあり方が物質的に表面化されたもの、すなわち「芸術は表現である」ということです。
 人間の創造は、ただ頭の中だけで考えをまとめるような例えばアイデアのようなものは当てはまりません。なぜならば、これらは目には見えませんし、仮に創造と名付けようとしてもどれを指してよいのかも判らないからです。
 人間の頭脳を使って、その人の思考なり精神のあり方が表現されて初めて創造したことになります。
 その他の特徴として、形式的・要素的なものは幾つも挙げることは出来ますが、特筆すべきものとしてはこの二つが大きな特徴となります。
 よく芸術の特徴を説明しているものに、例えば大きな動きを感じさせるものであるとか、神秘的なものや儚いものであるとかいった特徴を挙げていますが、これらは作品からもたらされた印象の説明にすぎません。
 結局、芸術と呼ばれているものの特徴は、「人間の精神活動の結果、その精神のあり方が物質的に表現されたものである」ということになります。
 芸術を解き明かすためには、この特徴が大前提となるのです。 


● 2・2 表現とは ●

 人間はたった一人では生きて行くことが出来ない、社会的な動物です。当たり前のことですが、例えば、子孫を残すことも人間一人では不可能で、必ず配偶者を必要とします。
 衣・食・住についても、人間が生活するうえでの要求は、多種多様かつ多量で、これはとても一人の人間で自足できるものではありません。必ず第三者の力を利用する必要があります。 ところで、第三者の力を利用するといっても、ただ黙っていただけでは第三者は何も気付いてくれません。そこで人間は、利用しようとする人に声をかけたり、文書を作って提示したり、時には身体を動かして身振りや手振りで相手に自分の精神的な要求なり思索なりを伝えようとします。
 このように、人間の精神的な働きかけは、そのままでは第三者の精神に勝手に入り込むことが出来ないので、一旦外部の物質的なものに働きかけを行って、第三者に対してアピールしようとします。
 形のない人間の精神的な働きを、物質的な形をかりて表面に現すということで、これを「表現」と呼びます。
 人間は日常の生活の中で、様々な表現を行っています。
 朝起きればまず「おはよう」と家族に声をかけ、外出して近所の人に逢えば「今日は良い天気ですね」などと挨拶をします。食事時が近づくと子供達は「お母さんお腹が減ったよ」と表現します。
 また、洋服を着るにしてもネクタイは背広とシャツにマッチしたものを選んだり、玄関には花を飾り、食事の盛り付けも食欲をそそるように色の組み合わせに気を配ったりする表現も行われます。
 普段何気なく行っているこれらのことは当たり前のことなのですが、このように考えてみると、私達は、寝ている時や一人で考え事をしている時を除き、その生活のほとんどは周囲の第三者や物に対して何らかの働きかけを行っており、このことから、私達が生きるということは表現することそのものと言っても過言ではないことが判ります。
 表現をするということは、何の経験も無い生まれたばかりの赤ん坊ですらお腹が減るとしきりに泣いてオッパイを要求することからも判るように、私達人間に本能的に備わったものであるといえます。私達人間には本能的に表現をしたいという「表現欲」があるのです。
 本能的であるということは、生物の進化の理論を借りれば、少し回りくどい考え方ではありますが、仮にこの表現欲を持たない別の種が居たとしたならば、その種は自らの子孫を残すことが出来なかったということになるため、したがって表現欲は人間が自らの生命及び種の保存を行うために必要不可欠な重要な機能、いわば人間にとっての自然の本性であるということになります。


● 2・3 芸術が科学的に分析されなかった理由 ●

 芸術についての理解ほど、昔から多くの哲学者・美学者などに議論され様々の分析・定義付けが試みられてきたにもかかわらず、未だに合意が形成されていないのも珍しいと思います。
 自然科学などは、日進月歩で新しい理論が発見された当初は色々な議論が巻き起こりはするものの、様々の科学的な検証によって次第に洗練された理論として落ち着きます。そして、その理論は、いわば全世界共通の概念として人々に引き継がれていきます。文化の発展は、これらの作用の賜で、これからも科学の進歩は乗数的に行われてゆくことでしょう。
 それでは何故、こと芸術については科学的な分析がなされなかったのでしょうか。
この事実は一体何を私達に投げかけているのでしょうか。
 それは、科学と芸術とは、全く別の性格を有するものであるにもかかわらず、科学を分析するのと同じ手法で芸術に対しても分析が行われたからと解釈してみてはどうでしょうか。この解釈は、大変勇気が必要で、何故ならば、プラトンやカントの功績すら一部否定しなければならないからです。
 いささか暴論ですが、今まで行われてきた芸術に対する分析・定義付けの方法なり方向なりに、実は見落としていたものがあったということになるかと思います。
 科学は、認識の一つであるとか認識の一つの方法であるとか言われています。例えば私達が赤色を認識する場合、誰もが直感的に認識を行うのですが、何故人間は色を認識するのかといったことを今までの哲学の定説である「直覚」という認識についての理論を使ってうまく説明することができました。事実、この理論が基になって、現代のコンピュータのCPUの仕組みである制御装置と演算装置の設計に役立っていると言われています。
 ところがいざ芸術にこの理論を適用しようとすると、結局は鑑賞者の認識の違いによるということとなって、うまく説明することが出来ませんでした。
 芸術は、表現された作品を示す概念であるので、科学をその方法とする認識とはそのアプローチの仕方に違いがあります。後ほど説明いたしますが、認識と表現とは丁度反対の仕組みで成り立っているため、「認識」の仕組みを解き明かすための認識論を使っただけでは、うまく「表現」の仕組みが説明されるはずはありません。
 今まで芸術が科学的に定義付けられなかった最大の原因は、認識の仕組みとは違う表現の仕組みについて、認識の理論をもって無理矢理説明しようとしていたため、科学的に理論立てすることが出来なかったのです。
 非科学的な科学などというとおかしな話しですが、科学はどこまでいっても科学です。表現は科学とはまったく別のものなので、これを科学的に分析するためには、まず「表現についての理論」を科学的に確立する必要があるのです。

【3 芸術の基本】

● 3・1 精紳と肉体について ●

 芸術は、人間の精神活動と深く関わるため、まず芸術の基本を正しく捉えるために精紳と肉体について考えてみたいと思います。
 人間の存在を精紳と肉体とに区分して整理したのは、哲学の父の異名を持つ17世紀のドイツの哲学者デカルトが最初であると言われています。デカルトは、人間の脳に精紳があって、その命令に基づいて様々に肉体が機能していることを論じました。
 この考え方は、科学の色々な裏付けによって立証され、細かな点で修正はあるにせよ、この考え方に正面から明確な論拠をもって異論を唱えられる人は、現在でも誰一人としていないでしょう。
 ところで、彼の有名な言葉の「われ思うゆえに我あり」に表されているとおり、精紳は一つの存在には違いありませんが、この精紳だけではこの世に存在することは出来ません。精紳だけが宙に浮いて空間をゆらゆら移動しているなどとは考えられません。それは、精紳は脳内の科学反応の結果として存在するものだからです。そんなことはないと異論を唱えるオカルト信者や宗教家も大勢いますが、彼らはいまだその根拠を科学的に立証してはいないため、彼らに対する説得は本書では省きます。
 話が少し外れましたが、それとは逆に肉体も精紳がなければ、ただの死体になってしまいます。このことから言えることは、人間は精紳と肉体とに区分して考えることは出来ても、この二つは有機的に密接に関係し合っているため、したがって、人間が生きるということを前提にして考えた場合、全くの独立したものとして捉えるのではなく、片方がなければ片方は成り立たないというふうに考えた方が適切でしょう。
 昔から「健全な精神は健全な肉体に宿る」とか「病は気から」とか言われていますが、肉体に何処か具合の悪いところがあると物事を考える気力もなくなってしまったり、逆に失恋などして精神的にめいっているときには食欲がなくなってしまって、ひどいのになると、胃潰瘍になってしまったなどということは、誰しも経験されたことがあるでしょう。
 だからといって、身体の具合の悪い人がすべて精神的におかしくなるわけではなく、気骨のある精紳で肉体的な苦境を克服している人も大勢います。また人が寝ているときも心臓やその他の器官はしっかり働いているというように、精神とは全く関係なく肉体が機能していることも事実です。
 このように、精紳と肉体とは相互に明確に独立してはいるものの、ある場面では密接に関係しているということで、これを相対的に独立していると呼ぶことにいたします。


● 3・2 人間の精神活動について ●

 人間の精神活動にはどのようなものがあるかについて少し考えてみたいと思います。
 通常、精神活動というと「こうしよう、ああしよう」といった意識的なことを思い浮かべます。例えば絵を書く時には、大体こんな感じの構図にしようとか、背景の色使いはもう少し明るい感じにしようとかいった具合に思索を巡らせます。
それでは人間の精神活動とは本当にこれだけのことで全てなのでしょうか。
 ここで、野球選手が球を投げるときのことを考えて見ましょう。
 彼がキャッチャーミットに向かってコントロール良く投球する時、まず今から投げようという意識が働きますが、それ以外には何か精神的な活動は行っているのでしょうか。
 人によっては周りの観客が気になったり、今後の戦略を練ったりもしますが、とりあえずはキャッチャーや監督の指示に従って、ミットで示されたあたり目掛けて全力投球します。そして腕の良い選手ならばコントロールの誤差は葉書の大きさにも満たないと言われ、それは現代の科学の力を以ってしても、いまだに人工では不可能な技だとも言われています。
 果たして、彼は、頭の中で力学や物理学、統計学などの理論を駆使して、意識的な精神活動だけでこれを行っているのでしょうか。
 子供のころからの気の遠くなるような鍛練の結果、彼の小脳をはじめとする中枢神経にこのコントロールのために必要な技がインプットされ、彼はほんの少しだけの意識で投球しようと思っただけで、あとの大部分は中枢神経の活動いわば反射的な精神活動によってこれだけの技を成し遂げているのです。
 このことから、一口に人間の精神活動といっても、その範囲の広いことが判ると思います。そして一般に思われているように、精紳活動は大脳による意識的な活動だけであると錯覚しがちですが、人間の行為の大部分はほとんど中枢神経系で反射的に行われており、こうしようああしようといった意識はほんの少しの作用しか人間の行為に影響を及ぼしていないことが判ります。
 ところで、この意識的な精神活動と反射的な精紳活動の関係も相対的な独立関係にあります。
 これは、反射は精紳の一種といえども直接に肉体を司る役割が強いため、どちらかというと肉体により密接に関係しているからと思われます。ですから、精紳と肉体との相対的な独立に見られるように、例えば意識的精紳活動に不具合があると同じように反射的精神活動にも不具合が生じることもあります。
 また反射的精神活動が悪ければ、それによって意識的精紳活動にも影響が及ぶことも考えられます。
 芸術創造に必要な高度な技を習得する場合、長年鍛練しても一向に腕が上がらないような人は、その現実を苦痛と感じるようになり、やがてその苦痛から逃れたいとする意識から段々とその内に素直な人間的な思考が出来なることが多く、その結果、創作に奇をてらうようになったり、本当に良い芸術作品を認めようとしなくなったりします。
 逆に、展覧会での受賞や金儲けのことばかり意識した作家生活が長く続くと、次第にせっかく取得した高度な芸術創造のための技術がうまく生かせなってしまったりもします。
 話は少し外れましたが、結局、人間の精神活動とは、大脳を使って行われる意識的なものと間脳、小脳、脊髄などの中枢神経を使って行われる反射的なものがあり、芸術を創作するときの精神活動の望ましい状態とは、芸術が精神そのものの現れであるとの前提に立てば、その双方の活動が共に充実していることが絶対条件となります。
 したがって、例えば、長い鍛練の結果、中枢系には高い技術を発揮させるだけの情報がありながら、作為的な意識的精神活動が強かったため、反射的精神活動を上手く機能させることが出来なかったような場合には、芸術としてはレベルの低いものになってしまいます。


● 3・3 認識と表現について ●

 認識とは、事実を知覚して理解するということです。
 例えば、目の前にいる犬を「私の飼っている太郎だ」と解ることです。
 この認識の仕組みについては、カントや西田幾多郎やその他大勢の有能な哲学者によって明快な説明がなされ、現在では部分的に理論の修正はありますが、科学的にもさまざまに検証され、ほぼ不動の理論とされています。
 その理論とは、細かなところでは異説はありますが、簡単に説明しますと次のようなものです。
 人間の認識は、まず事実について知覚や感覚が起こった時点ではまだ主観・客観にすら分化することのない精神の活動である直覚とよばれる生のままの純粋な経験があって、その次に直覚されたものの条件が過去の記憶などによって関係付けられて、その直覚が判断され認識されるというものです。
 そして人間の様々な思惟や意志、主観や客観といった意識の分化もこれによって惹起されるものとされています。
 目の前の犬を見たとき、まず「これは何である」とか「この犬は太郎である」などといった判断がなされる前に、まず「目の前の犬を見ている」という事実そのものの精神活動があって、そしてその情報を過去の自分の記憶に照らし合わせて「この特徴からすれば太郎という私の飼っている犬だ」と判断するというのです。
 これらは認識論と呼ばれるものですが、人間の認識といういわば一瞬の仕組みを、なにもこのように回りくどく考えなくてもと思われるでしょうが、先人のこの偉大な発見によって、今ではコンピュータでこの仕組みを上手く使って、入力装置(目などの感覚器)、制御装置(情報の直覚)、演算装置(判断)といった機能を持たせることで情報を効率良く処理していくのに役立っています。
 認識の仕組みを簡単に表わすと次のとおりになります。
《 対象 → 直覚(主客未分化) → 判断(主客へ分化) 》
 ところが、いざ表現については、認識論に比べどちらかというとあまり明確な理論の確立がありません。芸術論や美学でも体系化はされておらず、現代ではやっと記号論という哲学の分野で、表現についてまで理論化を進めようとする動きがみられますが、いまだ不完全の域を脱し得ません。
 芸術は表現の一つです。これを忘れては芸術の本質を理論化することは到底不可能です。
 先ほど書きましたように、認識論は人間の直覚以降の理論です。芸術もその作品を鑑賞するということのみに着目れば、認識論だけでも説明できそうな気もしますが、それでは「私の飼っている犬」を見たのと「ミケランジェロの彫刻」を見たのではなぜ心の動きに違いがあるのかが上手く説明できません。
 実は私はここに着目したのであります。
 認識も表現も人間の精神活動・意識活動いわば心の仕組みに他なりません。ただし、表現の仕組みは、先程書きました認識の仕組みとは丁度正反対の仕組みで成り立っているのです。
 認識は心が外界の対象から事実の情報を直覚いわゆる「純粋な経験」といういわば外界と精神とを繋ぐ接点によって知覚されるのですから、人間の表現についても、認識の仕組みにみられるような精神と外界とを繋ぐ接点が考えられるのではないでしょうか。
 表現は、声を出すにしても身体を動かすにしても、まず肉体とりわけ筋肉を動かすことによって行われます。
 この筋肉動作を惹起するものは思惟なり意志によるものと判断されますが、これをそのまま使って筋肉動作を行ったのでは、心そのままを表現するには不完全です。何故ならば、思惟や意志は、直感による事実を条件や過去の記憶によって判断なり分析した結果であることからも解るとおり、事実をありのままに直感し得る心の一部分に過ぎないからです。
 このことから、表現についても、認識の場合と同じように、それとは逆のアプローチである「純粋な表現」が考えられてもよいのではないかと思います。
 人間がある表現を成そうとする時は、まずそれに先だった主観や客観といった意識に分化した思惟や意志がありますが、表現が人間の精神そのものの具現であるならば、その分化している思惟や意志を精神そのものに統一しなおさなければなりません。それは丁度、認識の場合の純粋経験・直覚と同じ様に、主客の統一によって心そのものとして純粋に表現するのです。
 先人の言う「精神統一」とか「無心」などという表現は、これらのことを端的に言い表わしているものと思われます。
 西田幾太郎も「善の研究」の中で、直覚の連続、または統覚の説明で、認識の立場ではありますが、これに近いことを論じています。
 表現の仕組みを整理すると、次のようになります。
 《 思惟・意志(主客が分化) → 純粋表現(主客統一) → 芸術作品 》
 結局、思惟・意志、主観・客観に分化している精神を統一した主客未分化の心そのものである純粋な精神活動によってのみでしか精神活動の完全な具現はなく、これ以外はすべて不完全な表現となってしまいます。


● 3・4 芸術を決定付けるもの ●

 いままでの議論を整理してみましょう。
 まず、芸術は表現の一つであってほとんど私達の生活そのものであるということ、そして、表現は、表現者の精神そのものが物質的に表面に現れたものであるため、表現の仕組みについて科学的に理論付けを行わなければならず、また、その表現の基となっている当該表現者の精神のあり方を科学的に分析することが重要なポイントになることを確認しました。
 したがって、芸術について科学的に分析を行う場合は、表現された作品と表現者の精紳活動とを関連付けて分析する必要があり、創作された作品の形式についてのみ分析を行って、その特徴などから、具体的な作品であるから芸術であるとか、抽象的な作品であるから芸術でないとか、フィクションは芸術でノンフィクションは違うなどと論ずることは誤りです。
 また、表現された芸術作品は、表現者の精神のあり方によって決定付けられること、その精紳活動には、意識的なものと反射的なものに分けられ、双方が同レベルに重要であることを確認しました。
 芸術を決定付けるものは、作者の精紳のあり方であるので、優れた芸術作品が生まれることとなった当該作者の精紳の仕組み・あり方を分析することによって、客観的な基準を定めることが可能となります。
 したがって、一般的に定説と思われている「芸術は結局鑑賞者の認識のあり方によるため、芸術の絶対的な基準は考えられない」とする観念論的な理論も誤りということになります。
 人間の精神活動には、意識的なもの反射的なものがあって、それらを構成するさまざまの要素が細かく関連し作用し合って、例えば主観・客観、記憶や意志といった働きを形作っています。
 芸術が人間の精神のすべてを具現したものであるならば、これら複雑な人間の精神を構成する要素すべてを統一する表現がなされているか否かについて作品を分析することが必要となります。


● 3・5 芸術の定義 ●

 これまで、芸術とは表現の一つであるためその表現された作品には当該作者の精紳のあり方に密接に関係することを確認しました。
 したがっって、芸術作品は作者の精紳のあり方によって一定のレベルを有するものと考えられます。
 言い換えれば、人間が表現したものという意味で大枠での芸術があり、そしてその芸術は、その作者の精神のあり方のレベルによって質の低いものから高いものへ無段階に評価されるだけのことであるということになります。
 世間一般には、表現された表面的な形式の特徴を捕まえて、これは芸術であってこのような形式は芸術でないといった、形而上学的な議論が行われやすいのですが、このような議論の仕方は芸術を表現として理解せずに、その表現の基となる精紳に分析の基準を置かなかったため、他に分析するものが見当たらないので仕方なく表現された形式についてのみ分析してしまう誤りからくるものです。
 結局、芸術は作者の精紳のあり方が反映されたものであるので、芸術の質の高低は作者の精紳のあり方の高低ということになります。
 ところで、芸術か否かを作品の質の高低によって判断しようとする考え方がありますが、それでは何処からが質が高いと言えて何処からが質が低いとしたら良いのか、その境界がはっきりしません。芸術という言葉は、表現された作品を呼ぶ言葉であるので、人間の精紳活動の結果表現されたものであって一つの独立した鑑賞の対象になるものは、質の高低の差はあれど全て芸術としてしまって良いのではないかと思われます。
 白黒はっきりさせようとする考え方は、人間の心理的要求として判らない訳こともありませんが、これは先ほどの芸術に対する理解の誤謬からくる形而上学的な要求で、この要求をいつまでも強く感じているうちは、芸術についての根本的な理解が不足していることの現れということになります。
 例えば、人間には男と女がいるばかりでなく、赤ん坊もいればノーベル賞博士や白痴や殺人者もいます。平凡なサラリーマンや大臣や社長や仕出し弁当屋でアルバイトをしている人など様々な人がいます。白人や黒人、大人や子供など、それはもう形式的、項目的に分類しようとすれば無数の区分けや概念で整理が可能です。
 しかし、人間であるという基本的な条件を満たしているい以上、たとえ猫の子よりおとなしい赤ん坊であっても誰もが躊躇なく人間と呼びます。
 人を殺したからといって、犯人を人間の部類から外してしまって別の生物として家畜同様に処刑してしまうことは行われていません。あくまでも悪いことをした人間として法の裁きを適用します。
 芸術についても、芸術の条件を満たしているものならば全てそれは紛れもなく芸術と認めてよいと考えます。 
 そこには、ただ質的に高いか低いかということがあるだけなのです。


● 3・6 美の本質 ●

 芸術について語るとき、美を論ぜずしては片手落ちと言わざるを得ません。何故ならば、人々がある作品に対して芸術という称号を与える動機は、その作品から「美」を感じることで惹起されるからです。
 美とは、一体いかなるものなのでしょうか。
 それでは、いきなり美の本丸を攻めるのではなく、段階を追って徐々に美の本質を解き明かしていきたいと思います。
 人間は誰しも美を感じますが、そもそも何故このような機能が人間に備わったのでしょうか。
 人間に限らず全ての生物には、一般的に生殖を行うとか、栄養を摂取するなどの身体的な機能が先天的に備わっており、そして物を認識するとか、また、高等に進化した動物になるにつれ恐れや美を感じたり、自分の意識現象を外界へ具現させるための表現を行うというふうに、精神的な機能も先天的に備わっています。
 これらの機能は、ダーウィンの進化論によれば、長い生命進化によって自然淘汰され、その生命を現存せしめるように変化し、いわば備わるべくして備わったと言えます。
 これらの機能が備わったがために、その生物は自らの生命及び種の保存を維持できるうよう有効に進化を遂げることが出来たのです。
 西田幾太郎は、「善の研究」の中で、美がどのように現われるかについて、「美は、その対象となるものが自然の本性を発現し理想のごとくに実現することによりもたらされる」と言っています。
 例えば、密蜂は、より美しい花に集まるといわれています。
 今ここで私が美しいと言った意味は、人間が感じる美しさと蜜蜂の感じる美しさが同じであるということではなく、蜜蜂がどの花に立ち寄った方がより蜜蜂の本性に合致するかという意味での、いわば蜜蜂の天賦を有効に開花させるための道標と言う意味合いで美しいと言ったのであります。
 蜜蜂がより沢山の蜜を得ようと美しい花に集まるのも、草木が自分の花粉をより遠くまで運ばせようとして蜜蜂を誘うために美しく花を咲かせるのも、長い生物進化の結果もたらされた自然の本性であって、水分の摂取がうまくいかない花は花弁の色つやが劣り当然に蜜の分泌も悪い、蜜蜂はそのことを長い進化の結果、本能として知覚しているのです。
 言いかえれば、花の自然の本性の発現が不十分であることが、蜜蜂にとっては美の欠落として知覚されたということになるかと思います。
 花の自然の本性の発現とは、結局、花の自らの生命及び種の保存のために長い生命進化によってもたらされた機能が、それに合致すべく働くことであるといえましょう。
 ところで、この花の美しさは、いわば花の身体的な機能について現われたものですが、人間などの高等な動物の精神的な機能についても、同じようなアプローチで美の具現がなされます。
 本書はいままで、人間は表現をする動物であることを論じてきました。
 そしてその表現は、人間が生きていくうえで重要な機能であり、それは先天的な身体機能と同様、長い生命進化に裏打ちされ、したがって、その理想的なる具現はいわば人間の天賦、自然の本性であります。
 例えば、生まれたばかりの赤ん坊が空腹になったとき、その状態を泣くという行動により表現して、何とか母親に伝えようとします。この時、泣くという表現は、母親の精神に対しより強く訴えるようにする必要がありますが、精神に強く訴えるためには、本当に空腹で苦しんでいる赤ん坊の精神そのものが具現出来るよう理想的な表現が必要となるのです。極端ですがもし仮に、泣き方の貧弱な赤ん坊が居たとしたら、その母親は赤ん坊の空腹に気付かず、みすみす我が子を餓死させてしまうことになるかもしれません。これらの例は、そう頻繁に起ることとは考え難いことですが、長い長い生命進化の過程で自然淘汰されていく可能性は大いにあるでしょう。
 いまお話しした例から判るとおり、精神そのものを具現させるために表現を理想的に行うこと及びそれを第三者の精神そのものの要求または美として感じとることは、生命進化の結果人間にもたらされた精神的な機能、天賦なのであります。
 ここまでの説明で明らかになった、しかも大変重要な点があります。
 それは、人間の精神そのものの表現が、第三者にとっては美となって感じられるということです。これを逆にして言いかえるならば、人間の精神そのものとしての表現ができなかった場合は、それは第三者にとって欠落した美となって感じられるということになります。 
 偏った観念によって表現されたものは、精神そのものでなくなります。精神そのものとは、観念も思惟も記憶も反射的なもの意識的なものすべて包含したものであるため、そのどれかが欠けても突出してもだめなのであります。これらをすこしでも逸しているものは結局精神の一部ということになり、精神そのものという自然の本性を欠いたものになり、それだけ表現された美も欠けたものとなってしまいます。
 芸術が、それを表現する人間の精神のあり方に左右されるということを具体的に述べるならば、すなわち、その人間が自らの精神状態を、観念も思惟も記憶も反射的なもの意識的なものすべて包含し精神そのものとして保てるか否かに決定されるということになります。


● 3・7 芸術の効用について ●

 芸術に対して私達は、自らの生活をより豊かにしたいという基本的本能的な欲求に基づいたものを持っていることは、前に述べた通りですが、もう少しこのことについて深く考えて、そこから芸術の効用・必然性を探り出してみたいと思います。
 話を判り易くするために芸術に係るこの欲求を仮に「芸術欲」として、人間の種の保存の本能と照らし合わせて考えてみたいと思います。
 種の保存と芸術とは一見関係の無い事柄のように思えますが、どちらも本能的ということで共通して比較し易いと考えます。
 人間が人類という種を保存するためには、生殖が必要です。この機能の基になる人間の欲求は「性欲」と呼ばれていますが、芸術にかかる「芸術欲」との関係に非常に良く似ており、したがって、これに置き換えて考えることが出来ます。
 生殖の効果は、言うまでもなく子孫を代々残してゆくという目的がありますが、その外にも性的な快楽を得るという目的もあります。
 性的な快楽を得たいとする欲求は、長い生物進化の過程で備わったもので、その必然的理由は、性的快楽を得るという目的が、いわば子孫を残すという目的をバックアップしている仕組みということが言え、むしろこの仕組みがなかったのであれば、子孫を残すという目的は達成できなかったであろうということになります。
 子孫を残すという目的は、人間の生存は単独では不可能であるという理由から必要不可欠なものですが、この機能だけではうまく子孫を残すという目的が達成できなかった事実が、長い生命進化のうちにあったために、仮に前者を主目的、後者を従目的としますと、主目的を確実なものにするための従目的の付加、または主目的達成機能と従目的達成機能の同化がなされたものと考えられます。
 ところで、種の保存にかかる理論は、現在までいわば肉体部分のみの保存に着目され展開されてきました。しかし、人間という一つの個体は、いままでお話ししましたとおり、その精神と肉体とが不可分であることから、精紳部分の保存機能についても生命進化の過程で人類に備わっていると考えた方がよいでしょう。
 ここまでお話した段階で、もうお判りになった方もいらっしゃるかと思いますが、私の言いたかったことは、人類の種の保存を可能にしている生命機能のうち、肉体部分の保存を可能にしているものとして生殖があり、精紳部分の保存を可能にしているのが、他でもない、表現ないしは芸術だということです。
 人間は肉体的にも精神的にも単独では生存することは不可能で、これを克服するための仕組みとして、肉体的には生殖機能が進化の過程で備わり、同時に、精神面では、当該人間の精神そのものを表現し鑑賞者はそれを美として摂取する機能すなわち芸術が与えられました。
 これによって人類は、精神的にも第三者の恩恵を受けることができ、代々生存することが可能となったのですが、人類は精神的にも種の保存を成し遂げ、現在のような文化を築くことができたのです。
 芸術の効用・必然性はここにあります。


● 3・8 芸術の分析について ●

 科学は世の中の事象について認識することに他なりません。そして、その認識のために分析という手法を用います。
 一見混沌としていて理解し難い事象でも、科学はその事象を形作っているものを様々の要素に区分けし、その要素同士の関係を一つ一つ整理していきます。すると次第に混沌の中から法則が見出され、ついには事象の全体が明確になり、私達が認識できるようになります。
 したがって、分析は科学にはなくてはならないものということが言えます。
 それでは、芸術を科学的に分析するためにはどうすればよいのでしょうか。
 芸術は作者の精紳が物質的に表現されたものに違いありませんが、その表現された対象の形式のみを要素ごとにいくら区分けしたところで、表現の基となった精紳活動は分析できません。
 なぜならば、表現された対象物は、すでに作者の精神は物質的な性質を借りて表象となって外界に具現した時点で個々の要素に分解され、精紳そのものではなくなってしまっているからです。
 したがって、創造された表現がいったいどのような作者の精神活動に基づいたものなのかを関係付けながら分析する必要があります。
 判りやすく言えば、表現された対象物の個々の要素のあり方が、はたして統一された精神そのものによる表現か否かを分析するということになるかと思います。
 例えば、彫刻などで伝統的技法はかけらも無くただ威圧的な表現のなされている場合、また単に何かグロテスクな表現がなされている場合、これを制作したときの作者の精神は、鑑賞者に対する何らかの脅迫の念かまたは美というものの誤った認識による恣意が強く、その他の精神がどこかに置き去りになってしまって、結局作者の精神の一部しか表現していないことになってしまっています。当然にその作品からもたらされるものは欠けた美にほかなりません。 
 人間の思推も意志も、意識的記憶も反射的記憶も、主客までも統一した精神そのものを表現するならば、当然にその表現された対象物の個々の要素はいずれの方向にも突出することなく、人間のあらゆる精神をすべて包含した表象になるはずであります。
 過去の優れた芸術作品のすべてはこれに該当していて、人間の喜びも悲しみも、慈悲も恨みも、献身も略奪も、ひらめきも熟慮も、偶然も必然も、すべて統一され包含されて表現されているのです。


● 3・9 精神活動の分析 ●

 芸術の評価は、それを制作した作者の精神活動すなわち心を評価することに他なりません。
 心の評価については、善とはどういうものであるのかといった議論が昔から大勢の名のある哲学者によってなされてきました。天真爛漫がよいとかどんな苦境にも屈しない気骨がよいとか言われ、ある程度年齢を重ねた人はそれぞれに至誠であるとか人のために尽くすとかいう座右の銘を掲げています。
 これらは大変に尤もなことで、私もことあるごとにこれらの名言に触れ、心洗われる気持ちになったりしています。しかし、これらの人間の心に対する評価のしかたは、各人の様々な人生から経験的に確立されたものであるため、要点・力点の置き場所が人によって様々です。これが例えば全体主義優先とか個人主義優先とかのイデオロギーの違いにもなっています。
 したがって、これらの評価のしかたは、世の中の様々な事情によっては、必ずしも当てはまらない場面も出て来てしまいます。
 はたして、この世の中には絶対的に善なるものは存在するのかといったことが最終的に議論されます。
 善とは、人間の行動に対して一定の評価基準を与える概念であります。そして、その人間の行動とは、すべて当該人間の精神活動のみによって決定付られるのです。
 芸術の質の高低は、作者の精神のあり方に関係付けられるものであるため、そこに現われる美は、すなわちその作者の人格の持つ美そのものということになります。 
 科学は、自然界の事象を認識するために、その事象について分析を行います。その結果、事象と認識とは客観的に一系列で整理され理解されます。
 芸術もこれと同様に、ある一定の精神活動があって、その精紳が物質的に表現されたものであるので、精紳と表現の関係も客観的に一系列で整理されるはずです。
 したがって、作品の質の高さと心の質の高さ客観的に結び付けている関係を探り出せば、不可能と思われていた心の評価も可能となります。
 西田哲学にあるとおり、真・善・美は真実在の様々の様子であり、インド哲学に説かれているごとくに、同一のものであります。簡単に言いますと、真とは、唯一の真実在であって、それは人間が外界の事象を知覚するに先立つ直接・純粋の経験なる意識現象であり、この瞬間の精神はいまだ主客にすら分化することのない生のままの統一されたものであって、それは自然の本性すなわち善ないしは美であると言われています。 
 人間の主客を統一した精神そのものは真であり、その状態に自らの精神を保つことは善であり、その精神をそのまま表現するとそれは美となって具現されるのです。
 したがって、芸術の質の高さを決定する作者の人格の高さとは、すなわち自らの様々に分化する精神をいかに一つに統一できるかにかかっているのであります。
 それでは、このことを踏まえて、様々に分化した人間の精神活動を少し具体的に見て、そこから統一された精神とはいかなる物であるかを考えていきたいと思います。
 まず、私達の今現在の様々な精神活動には、まず第一に考ええられるのは、人間の精神活動の基礎となる記憶すなわち知識です。第二に、喜びや悲しみ、怒りや悦楽といった感情です。そして第三に、これら知識や感情に基づいて、自らの精神を外界へ具現させたいとする意志があります。
 これらは昔から俗に知・情・意と言われ、私達の精神活動をその活動の特徴から大きく分類したもので、これらよりもっと細かく分類しているものや別の区分けの仕方で整理しているものもありますが、要するに私達の精神は、一言で言えば様々な機能を持っているということで、解りやすく言うならば、例えば「あの人は知識は豊富だけれど意地が悪い」とか「何々さんは人はいいんだけど要領が悪い」などの言い回しのように、人間の精神には知識や感情など様々な様態があるということで、日頃私達も、これらのうちどれか一つ欠けても突出しても不完全なのだということを知らず知らずのうちに前提にして生活しています。
 「人を殺す」という行為は、いつの時代でもほとんどの人がそれは「悪(善ではない)」という認識を持ちます。しかし、この「人を殺す」という表面的な動作の特徴だけから、これを善でないとしている慣習は、先ほど述べた「精神統一が善となる」いわば統一理論の考え方には立脚しておりません。統一理論の立脚地から見れば、「人を殺す」動機の大方は、一時の感情のみがあまりにも大きく突出するため、それは紛れもない「悪(統一されていない精神の具現=美の欠落)」でありますが、時には、戦時中など相手兵士から襲われるなどして自分の愛する人や親兄弟の生命が極限状態にあるようなとき、一個人のさまざまの知識・感情などをすべて結集・尊重して統一的に判断した結果、ここで相手兵士を殺める以外にこれら自分の愛する人を救える方法が他に見つけられないといったような場合には、「人を殺す」という行為が「善(完全に統一された精神の具現=美)」となることも充分に考えられるのです。

 

【4 芸術学への誘い】

● 4・1 表現形式と表現内容 ●

 芸術を鑑賞するにあたって、その表現形式と表現内容ということが良く取り上げられ議論されているようです。そしてその議論の多くは、表現形式については概ね共通の概念が確立されているようなのですが、表現内容については現在でも様々な定義付けが試みられています。
表現形式とは文字どおり表現されたものの物質的な特徴で、例えば、使用している絵の具の色や種類、大きさなどで、音楽で言えば短調であるとか弦楽四重奏であるとか、これらは目や耳や肌で感じとることが出来ます。ですから人々は安心してこれを理解することが出来ますが、それでは表現の内容とはどのようなものなのでしょうか。
これらの問題を取り扱う場合、昔から行われてきた手法の一つに、観念論と呼ばれているものがあります。これは哲学の伝統とも言えるもので、かの偉大なデカルトやカントもこの手法によって様々の問題について分析を試みています。
これは簡単に言えば、「事象の存在の根拠を観賞者の認識に求める」というもので、デカルトの「われ思うゆえに我あり」の言葉に端的に表れています。「われ思う」の認識があるのだから、「我」は紛れもなく存在することになる、と言うものです。
デカルトのこれはこれで偉大な天才的な発見と呼ばれるものですが、この世の中には物質的な存在の他、物事同士の関係としての存在もかなりあります。
例えば、人間の精神は脳内の科学反応の結果として存在するもので、これは目にもみえず手にとることも不可能です。そして多くの観念論者は、その存在の根拠を人間の認識に求めたり、根拠が見えないのにその存在は経験的に感じられるためオカルト的に考えたりしてしまいます。
リンゴが描かれている絵について「この作品の内容とは何か。それは何処にあるのか。」と例えば学生に尋ねると、大抵次のような答えが返ってきます。
「内容とはリンゴが描いてあるということ、そしてそれはここにある。」と言って作品を即座に指差すでしょう。ところが少し考えて内容というものが捉えどころのないことに気付き、「待てよ、内容はやっぱりここには無くて、実際のリンゴのところにあるのかな。それとも作者の存在と同一かな。もしかしたら作品そのものかな。」というふうに段々と自信無げになってしまいます。
名のある哲学者ですら観念論の立場から説明することが多く、内容の存在は観賞者の認識に依存するということになって、人それぞれの認識の違いに左右されるため、結果的に観賞者の数だけ様々な内容が存在してしまうという奇妙なことになってしまいます。
人間はどうも目に見えないもの、すなわち物質的でないものについては、その存在の根拠を他の物質的なものに強引に関係付けたり、その存在の根拠を観賞者の認識に求めたり、極端なものになると、存在自体を否定してしまったりしますが、これらはいずれも間違いであって、事象との関係として存在するということを理解すべきです。
表現内容とは表現形式との関係として存在することになるのです。


● 4・2 感情移入について ●

 感情移入とは、私達が芸術作品を鑑賞するとき、その作品を通じて作者のその時の精神と同化することです。
 作者の精神そのままを鑑賞者の精神が直に感ずるこの感情移入なしには、芸術作品の鑑賞は考えられません。
 人間相互の精神は、例えば、他人の歯の痛みを直接自分の痛みとして感じることができないように、直接に連絡を取り合うことは不可能です。
 人間が精神そのものを表現し、それを第三者が表現者の精神そのものすなわち美として感ずるという仕組みは、長い生命進化の結果私達に備わったものであることは、前に述べたとおりでありますが、感情移入は、この仕組みを有効に働かせるための重要な機能なのです。
 感情移入についての解説は、日本では夏目漱石の文献に見られますが、過去あまり理論的に捉えられたことがありません。
 自分の感情と他人の感情とを同化させるなどというと、何か難しい特別なことのように思われますが、決してそんなことはなく、私達は日常知らず知らずのうちに自然に行っています。
 例えば、ひいきにしている力士が、相手力士の猛烈な突っ張りを受けながら土俵際で必死にこらえているのを見ると、こちらも自然に身体に力が入ってしまいます。赤ちゃんを抱いた夫婦が側を通りかかったとき、ニコニコしたその赤ちゃんに見つめられると、こちらも何だか穏やかな気持ちになります。 
 芸術作品の鑑賞には、これらと同じ様な仕組みが自然に働きます。
 感情移入は、他人の精神を理解したいという、人間の本能的な仕組みであるといってもよいでしょう。
 勢いのあるタッチの線質の多い絵画を見れば爽やかな気持ちになり、太々としてしかも弾力に富んだ印象の彫刻作品を見れば安定的ななかにも内に秘めた力強さを感じます。高貴な感情が強く作品に表れ、これはとても凡人の成せる技ではないと関心したり感動したり、時には畏敬の念を抱いたりします。
 この感情移入は、いわばポジとネガの関係にある芸術作品と作者の精神との結びつきを探るための重要な仕組みであると言えます。
 ところで、事象を認識する科学と、精紳を表現する芸術とは、そのアプローチの仕方が全く逆になっています。科学は事象をその形式について分析するのですが、芸術は、その表現された作品形式について分析することはできても、その結果のみを用いてその表現の基となった精神を直に第三者の精神に同化せしめることは不可能です。
 そこで、表現された芸術作品から作者の精神活動を分析するためには、この感情移入を用います。
精紳とそれが投影されたことになる表現とは、丁度カメラでいうところのネガとポジの関係と同じです。
 精紳のままでは、この世の中の物質的な世界へ働きかけることが不可能であるため、要するに人間の目に見える形に物質的に変化させて表現することになったといえます。
精紳のネガで人の目に見える物質的なポジを現像(表現)するのです。
そして芸術評価のポイントとなる感情移入は、表現の赤を見てネガのマゼンダを感じ取るようなものです。
Aという精紳を第三者に伝えるために、芸術という表現を行って作者はA’を創造します。
観賞者はそのA’に対して感情移入を行って、Aという精紳を自分の中に取り込むのです。この時、これがBやCになってしまったら、人間の表現を行うという基本的な本能は役に立たなくなってしまいます。


● 4・3 芸術家の条件 ●

科学は認識の一つであるから、自然界の様々な事象について分析し理解するためには、効率の良い分析手法や分析された要素の解決方法、また要素間の関係付けのために先人が解き明かしてきた理論を必要とします。
このことから、科学は「知識」の高さに決定されると言えます。
ところで、認識というのは、知識さえあれば個人の精紳の質的な高さ低さには関係なく、万人が共通に享受することが出来ます。例えば、目の前にブルドックを見た場合、その犬の種類はどの部分を特徴として捉えればよいのかという分析手法にかかる知識と、その特徴はブルドックという種類の犬であるといった知識があれば、誰にでも認識することが出来ます。
犬を心から愛する人なのか、反対に犬と見ただけですぐ蹴飛ばしてやりたくなるような野蛮な人なのかは問題ではなく、知識さえあれば、人間は事象を認識することが出来てしまいます。
ところが、芸術の場合は、作者の精紳の表現であるため、その作者の精紳のあり方がその作品を決定付けます。
先程のブルドックをキャンバスに描く場合、ブルドックの特徴についての知識なども必要にはなりますが作者が動物に対する愛しさをあまり抱かない精紳の持ち主であるならば、その作品に描かれたブルドックには愛くるしい表情は表現されるはずはなく、思わず蹴飛ばしたくなるようなものを表現することでしょう。
結局のところ、芸術の質の高さはその作者の「人格」の高さに決定されるということになります。
芸術家は絶えず人間的な感動を与えられるような表現の基となる精紳のあり方とはどのようなものであるのかを考え、現実の生活の中で人格を高めるように努力してゆかなくてはなりません。
現代は特に、科学によって生活が豊かになったこともあって、科学至上主義になっています。
そして人々は、知識の高さはそのまま人格の高さであるかのような錯覚に陥っており、これが学力偏重の学歴社会を生む原因にもなっています。
知識の高さは、人格の高さには関係がなく、知識の高さによってその人の精紳の高さは測ることはできません。
精紳の高さに関係のあるのは表現であって、したがって、その表現すなわち芸術の高さでその作者の精紳の高さを推測することができるのです。
人々は、最終的には、精紳の高さを求めようとします。これは、本能的に人間が安堵を求めているからですが、今後の人類の安堵の向上のためにも芸術に対する正しい理解が不可欠です。


● 4・4 心そのものとしての表現 ●

 人間の精神現象・意識活動そのものの具現、すなわち心そのものの表現が「美」となるということを説明してまいりましたが、それでは、心そのものを表現し美を発現させるためには、具体的にどのようにすればよいのでしょうか。カントに代表される認識論の確立や心理学、大脳生理学などの進歩によって、人間の心についてはかなり明確な区分がなされています。例えば感覚器からの知覚や中枢神経の記憶、感情や意志といった具合に、人間の意識現象すなわち心にはいくつかの様々な状態が考えられます。これらは細部について異説があり、より完全な学説確立のためには、更なる研究が期待されるところですが、要するに、美を創造するための心そのものの表現とは、これら私達の精神現象をすべて一緒くたに表現することなのです。この理論は、かなり乱暴に思われるでしょうが、昔から俗に「精神統一」とか「欲を捨てて己に勝つ」などと言われてきた芸術創造の極意は、実はこの「精神現象の統一的表現」の重要性を言い得ていたのです。展覧会で受賞することばかり考えて作品を創作したり、過去に名声を得たのをいいことに美の追究そっちのけで金儲けばかり考えて作品を創作したり、逆に 、手先が器用で古典的な技術が人一倍扱えることを唯一の励みとして新しい創作の工夫を怠っていたりする意識活動は、精神現象の統一が破れ、部分的な意識や一時の感情などが突出している(裏を返せば、それ以外の感情や記憶を欠いている)ため、その表現されたものは、作者の精神活動の一部分しか具現されていないこととなり、結局、表現された美も欠けたものになってしまうのです。幼い頃から鍛錬し身に付けた芸術創造のための技術も作品創作の時の一瞬のひらめきも、大きくゆったりとした感情も激しく突発的な感情も、憎しみも慈悲も、喜びも悲しみも、これらすべての人間の意識現象が統一され一個の作品となって表現されたとき、そこには人々の心を強烈に震撼させる芸術・美がおのずと創造されているのです。
私はここに、美の具現が精神活動の統一の程度に左右されるという仕組みを「美の統一原理」と名付け、この原理の一層の普及を図らんとするものであります。


● 4・5 善なる行動とは ●

善なる行動などというと、何か宗教じみた、また学問的に特別のことのように思われるでしょうが、善・悪を区別するということは、人間の行動について価値判断を行うことで、私達は日頃、食卓から楊枝を取るといったほんの些細なことから、人生や国家の岐路を選択しなければならないといった重大なことにいたるまで、常にこの種の判断を行って生活しており、したがって、善なる行動について正しく理解することは、私達の生活をより豊かにし、誤りなく人生を送るために欠くことのできないものなのです。本書が一貫して述べているとおり、芸術創造は美の表現であり、それは表現者の精神現象の統一的具現でありますが、行動こそ私達人間の表現・精神活動の具現でありますから、その善なるものとは、すなわち人間の精神活動の統一的具現に他ならないのであります。この理論は、すでにプラトン哲学やインド哲学に見られますが、簡単に言ってしまえば、善なる行動とは、様々に分化している人間の精神を統一して行動することなのです。
目先の損得や快楽、一時的な感情のみに触発されて行動するのではなく、他人の感情に対する慈悲や伝統的な慣習への考慮など、保身的な精神も改革的な精神もすべて尊重し統一して行動することがすなわち善なる行動なのです。一生のうちに私達は何度か大きな選択に迫られますが、このときの判断を内省する方法の一つとして、この判断は、一時の感情も後に予測される周囲の評価も、慣習的な知識も一回性のひらめきも、個人主義も全体主義も、憎悪も慈悲も、己のすべての精神が統一され均衡が保たれたものであるかどうかを考えてみるとよいでしょう。
プラトン哲学においても東洋哲学においても「均衡」や「中庸」という考えが重んじられ、西田幾太郎も「善の研究」の中で、この理論を「統一的精神(意志)の活動説」として全面的に肯定しております。ただ私がこれらの理論に一つ付け加えたのは、精神の統一とは一体何と何を均衡させるのか、また、この行為自体まさしく自然の本性の現れであり、それはそのまま美となるということです。


● 芸術の基本(短編) ●

 芸術とは、人間が表現したものを呼ぶ言葉であるので、まず「芸術とは人間が表現したものに対するある種の称号である」ということが言える。
 次に、表現されたものについて鑑賞者が芸術と呼ぶ動機は、その表現されたものから美を感じることで惹起されることが常であるから「表現されたものが芸術であるためには美が表現されているということが必要である」ということが言える。
 さて、人間が美を感じるとる機能とは、長い生物進化の結果もたらされたものであり、その美とは、それを感じとることで人間にとっては生物進化を有効にもたらしたとすることができることから、「人間が種の保存を含めその生命の維持に必要な事物を感じとるための道標がすなわち美である」ということが言える。
 また、美によって人間が生物進化を有効に遂げてきたという事実から、「人間にとっては、美とは自然の本性の現れである」ということが言える。
 一方、表現とは、人間の精神現象が物質的に表面に現れることであるが、人間が表現を行うことについても、社会的動物である人間が生活するうえでの重要な機能であり、人間がより有効な生物進化を遂げるためにはより理想的な表現を行うことが必要であったとすることができることから、理想的に人間の精神現象を物質的に具現することができた表現は、人間の存在も自然の一部と考えると、美を感じとる機能と同様に、自然の本性の現れとなるということが言える。
 これらを整理し換言すると、人間の理想的な表現は、自然の本性の現れすなわち美となって具現されるということが言える。
 ところで、人間の精神現象は、大脳神経系の働きによる意識的なものと中枢神経系の働きによる反射的なものがあり、これらは互いに有機的統一的に精神そのものとして機能していることから、人間の精神現象を理想的に表現するためには、これらのものを有機的統一的に主客合一の精神そのものとして表現されることが必要であるということが言える。
 以上を整理すると、次の通りの結論となる。
「人間の意識的精神現象及び反射的精神現象を有機的統一的に精神そのものとして表現した場合、それは自然の本性すなわち美となって具現され、結果として鑑賞者はそれを芸術と呼ぶのである。主客合一の精神そのものの表現はすなわち美であり、人々はそれに芸術という称号を与えるのである」。

あとがき


 芸術などというと、とかく難しく思われがちですが、決してそんなことはないと思います。
 芸術は私達の生活に密接に関係しています。そして、その生活の基となっているのは、紛れもない私達の意識活動に他なりません。
 芸術は、創造するものでもあり、また、それを鑑賞するものでもあるため、とかく議論の焦点が定まらず、そしてまた、作品からもたらされる印象の説明と芸術の本質についての説明が混同され、明確な整理がつき難いため、関係書物についても難解なものが多く、過去から、名のある哲学者・美学者をもってしても、非科学的な踏み外しが何度も繰り返されてきたことは事実です。
 しかしながら、偉大なる科学の歴史が物語るように、本来、物事の本質は、意外と単純なものです。
 芸術とは、私達の表現に他なりません。
 表現とは、私達の意識活動が物質的にそのまま表面化されることであるので、したがって、その表現が美しいかどうかは、表現者の意識活動が健全であるか否かによることとなります。
 考えてみますと、私達の人間社会を形作っているものは、結局は私達の創り出したもの、すなわち、表現なのです。社会は、私たちの表現で成り立っているのです。ですから、よりよい社会を成り立たせるためにも、私達個人個人の表現がより健全になっていくことが必要なのです。
 つたない論文ではありますが、知識教育偏重の時代にあって、この「芸術の基本」が、僅かながらでも真の表現教育の重要性を唱えるための礎石となればこのうえない幸せです。


   平成8年7月執筆  日沼 修一